過ちの向こう側

先日こんなツイートが流れてきました。

人はなぜ間違いを犯し、なぜ過ちを繰り返すのでしょうか?これは人間にとって永遠の課題かもしれません。

過ちの構造というのは奥が深くて、様々な角度から研究されている分野です。例えば、ビル・ゲイツ氏が絶賛したベストセラーFactfulnessは人間の世界像を歪めてしまう様々なバイアスについて論じています。

また、ダニエル・カーネマン氏のThinking, Fast and Slowという本では人間の思考が「瞬発力はあるが大雑把な」部分と「論理的だが遅い」部分で成り立っており、状況に応じて使い分けていると説いています。どちらにも良し悪しがあるのですが、様々な場面で私たちはこれらの使い分けを間違ってしまい、その結果誤った判断をしてしまうというのです。

これらの本から学べることはまた別の機会に詳しく書きたいと思いますが、今回は職場などでミスを犯してしまったときの対応について少し思うところを書きたいと思います。

実は先日、仕事で大きなミスをしてしまいました。私がリリースしたプログラムが誤作動を起こし、実害が出てしまったのです。私がミスを犯したことは上司にもすぐに伝わりました。職場によっては呼び出されて叱られるところかもしれません。しかし、私は叱られるどころか、迅速に対応したことを感謝されました。私はイギリスでいくつかの職場を経験していますが、上司に叱責を受けたことはありません。

誰かが失敗したときに叱ったり罰を与えたりすることも時には必要かもしれませんが、それよりも「今後同じような失敗を繰り返さないようにするにはどうしたら良いか」を考えることの方が重要だと考えられています。

罰を与えることで失敗が減ることもありますが、罰を恐れるあまり失敗を隠蔽する人が出てくるというリスクがあります。これは失敗の発見や適切な対応を遅らせることにつながり、その結果、影響範囲が拡大したり、問題が深刻化したりする原因にもなりえます。

また、処分を与えられた本人は反省するかもしれませんが、個人的な反省だけでは不十分な場合もあります。組織の中で発生する失敗は、様々な因子が重なった結果生じるものです。重要な仕事が行われるとき、その過程では、確認作業などいくつかの手続き経るのが普通です。だとすると、以下のような疑問が生まれます。

・途中でミスが発見されなかったのはなぜか?
・正しい手順が踏まれなかったのであれば、なぜ省かれたのか?
・確認作業が不十分だったなら、今後は既存の工程をどのように補うべきか?

関係者が集まって反省会を行い、ミスの原因を多角的に議論していくと、一人では思いつかなかったようなシステム上の欠陥や、改善点が見えてくるものです。こうした反省会のことを不謹慎ですがpostmortem(検死解剖)と呼ぶことがあります。その場では誰の責任かといったことは問題にされず、あくまで根本原因の追究と改善点の立案が論点になります。

責任のなすり合いは建設的な議論の妨げになります。解決へつながる大事な情報が見落とされたり、非難を恐れて省かれたりする恐れがあります。また、事実だけを検討していくことは、冷静に問題点を分析することを可能にします。

組織が人間で構成されている以上、事故が起きることは免れません。しかし、一つ一つの失敗がその組織に何らかの改善をもたらすことができれば、私たち失敗とよりうまく付き合っていけるのではないでしょうか。




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