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#7-8【月】 編集後記

どうも、毎日映画トリビアです。

映画トーク系ポッドキャスト番組「深めるシネマ」、石井裕也監督の新作映画「月」について深める回、編集後記です。

今回は映画宣伝会社のFINOR.Incさんより試写にご招待いただき、深めるシネマにしては珍しく、新作映画について深めてみました。

相模原障害者施設殺傷事件をもとにした辺見庸の小説を実写映画化したこの作品。

僕もTomoheeも、深めるシネマで取り上げるならしっかり作品の底の方まで感じ取らなければならないと思い、宣伝担当の方に無理を言って、2人ともそれぞれ5回ほど鑑賞させてもらうという厚かましさで、覚悟を持って挑んだ収録でした。

そもそもこの重たいテーマの映画を5回も通して見るにはかなりの精神力が必要だったわけですが、結果、しっかりこの作品が訴えかけているテーマを自分たちなりに表現できた回になったのではないかなと自画自賛してます。(どこまでも調子に乗っていくスタイル)

この編集後記ではその補足を書いていこうと思います。


自分対自分

今回のエピソードの中で、僕はこの映画を「格闘技映画」と例えました。

よく脚本の講座では、主人公の最終的な宿敵は主人公の鏡写しの存在でなければならない、という基本テクニックが教えられますが、この映画の登場人物である洋子(師匠)、昌平、さとくん、陽子の4人の関係性の間にも鏡写しのように似ている部分が存在します。

洋子と陽子は文字通り名前が同じでどちらも物書き
さとくんと昌平はどちらも芸術への夢を諦め切れない者同士

この映画の中で対立している価値観は、すべて彼ら自身の中に存在するもの。つまり、この4人に限らず、登場人物たちは皆、相対する相手に自分の中にある”見たくない一面”を見ているということになります。

この構造が、最初にこの映画を見た時に、僕の目には格闘技映画のように写ったんだと思います。

特に劇中後半の洋子とさとくんの長い討論シーン。議論が白熱するにしたがい、さとくんだと思っていたものが、実は自分自身そのものだったと気づく演出がそれを表しています。

最後は「自分自身との戦い」へとなっていくのが、「ロッキー」をはじめ、多くの格闘技映画のお約束。

物語終盤の展開で、恋人に全く相談せず人の命を奪ったさとくんと、夫と2人で話し合い、(少なくとも僕には)お腹の子の命を奪わなかったように見えた洋子(師匠)。この2人の行動は対照的に描かれています。

実は収録の冒頭付近で、この鏡写し構造については少し喋っていたのですが、宣伝会社さんからいただいたプレス資料に載っている監督・脚本の石井裕也さんのインタビューでも明確にこの「対応する鏡写しのキャラクター」のことが明記されていたので、あえて僕らの番組で語る必要はないかなと思い、ばっさりカットしています。

この部分をカットした理由のもう一つが、編集にあたり今回のエピソードのコンセプトに必要がないと考えたから。

そのコンセプトとは、この映画「月」について語る僕らの番組自体も、異なった価値観の葛藤によるバトル映画の構造にするというもの。

僕と相方でしっかり反論しあい、妥協点を見つけていくというプロセスを見せたいと思ったので、その構造にそぐわない枝葉の話は今回かなりカットしています。

余談ですが、収録前当初の僕の構想では、完全に僕がこの映画の中で陰惨な事件を引き起こす「さとくん」の立場に立ち、相方を徹底的に論破してボコボコにするという、身も蓋もないスタイルで収録を行うという考えも浮かんでいたんですが(それがいかに際どい行為であるかを理解した上で、それぐらい気合が入っていた)、いざ収録を開始すると、どうしてもそれができないことに気が付きました。

僕の中で「自我がない(ように見える)障害者はいらない」という価値観を、番組の構成上「そういうてい」とはいえ、自分の意見としてしゃべることがやっぱりどうしてもできなかった。

その理由を収録後に自分なりに考えてみたのですが、やっぱり「(絶対に否定したい)その価値観に地続きな考えを一ミリももってないとは言えないから」という理由以外に思いつきませんでした。くやしい。

これをやってのけたのが本作だと思っていて、その部分も含めて(役者も含めて)本作の制作陣は素直にすごいなと感じたり。

本音と建前

本編中に相方が語った彼にとっての「本音の仕組み」。

これは非常にわかりやすく、劇中のさとくんの思想の問題点へのパンチになっていると言えます。

つまり本音とは、さとくんが考えるように、

人の心には「本音と建前」という真逆の価値観だけが存在しており、かつ、本音はすべて(隠された)真実の自分である一方、建前はすべて(調子のいい)偽りの自分

ではなく、

人の心のなかには常に複数の本音が同時に存在し、その一つ一つが常に葛藤しながら人の行動を決定している。
つまり、整合性の無いその一つ一つの本音の全てが実は本当の自分である。

という考え。

さとくんのパンチは、あくまでみんなの建前が「人の命は皆等しく平等」という価値観で、その逆である「心のない、意思の疎通がはかれない、役に立たない命はどうでもいい」という価値観が、実はみんなの(臭くて汚い)本音なはずであるという仮説。

対して相方Tomoheeが考える深めるシネマからのパンチは、

(本音A)『人の命は皆等しく平等だよね』
(本音B)『でも意思の疎通がはかれない場合ってどうなんだっけ?』
(本音C)『心がない場合はそもそも生きてて幸せなの?』
(本音D)『心ってあるとかないとか、そういうものじゃない』
(本音E)『でも実際介護してる人にかなりの負担が生じてるのは問題だ』
(本音F)『自分は関係ない』
(本音G)『関係ないはずない』
etc…

という無数の価値観が常に葛藤しあっているはずであるという仮説。

このどれもが紛れもなく自分自身の本音であり、その葛藤の結果、その時々の行動が決定しているわけです。

その葛藤を止めてしまい、常に本音、もしくは常に建前だけで生きていくのはとても危険なことだとすら思います。何より二階堂ふみ演じる陽子のように人を傷つけるし、自分も傷つけるはず…。

有用性からの脱却

僕が今回この作品が描くテーマとして、現代の社会と地続きだと感じたのは、有用性について。つまり今の社会に生きていると、人の価値や存在意義、意味について僕らはひっきりなしに考えさせられるようになってきているな、ということ。

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