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「PLAN 75」で考える効率を重視する社会

「PLAN 75」という映画を見てきた。僕は普段から「優れたホラー映画はその時代に潜む社会的な恐怖を描き出す」と考えてるんだけど、そういう意味ではこの作品は完全にホラー映画だった。

75歳で自ら死を選ぶことができる制度が導入された日本を鋭く、そして同時に優しくも描いた映画「PLAN 75」。

物語は老人ホームを猟銃を持って襲撃する青年のシーンから始まる。映画の内の日本では現実の日本と同じように少子高齢化により若者の負担が増え、このような高齢者を狙った大量殺人事件が増えており、この対策として「PLAN 75」という制度を政府が採用。負担となる高齢者の数自体を、彼らの「自らの意思」によって減らしてしまおうということだ。

この制度の描写があまりにも現実味がなさすぎると途端にSF映画のようになってしまうが、劇中のこの制度はとにかくよくできている。高齢者が集まりやすい病院などで、まるで保険会社の宣伝のように「安心」を謳う明るいビデオによる啓蒙活動。ホームレス住民のための炊き出しの現場に派遣され、親身に相談に乗る市役所の事業担当者。申請者へ提供される自由に使える10万円の支度金と、心のケアのために開放されている1回15分のコールセンター。どれも文句の付け所がないほど合理的だ。

恐ろしいことに今すぐにでも現実の日本でもこの制度を施行できるのではないかとすら思えるほどリアリティがある。このリアリティのおかげで観客は「意外とこれが正解なのかも…」と価値観を揺さぶられるはずだ。

この「制度の正しさ」に対するのは登場人物たち、つまり人間の姿や行動だ。倍賞千恵子演じる一人暮らしの老人ミチが取る行動。同年代の友人たちとの公民館でのカラオケの練習が唯一の楽しみという慎ましい生活を送っている彼女は、ついに職がなくなり家を追い出される。彼女の生活の描写にはこの制度と同じ、いやそれ以上のリアリティがある。彼女や彼女の友人たちのシーンには、ずっと見ていたいと思うほどの生活感がある。

PLAN75に申し込んだ彼女の担当になるコールセンター職員の瑶子は、ミチの話に親身に耳を傾けるうちにこの制度自体に対する感情が動いていく。比較的に受け身な彼女がカメラを通してこっちをじっと見つめるとあるシーンには鳥肌が立った。

同じく磯村勇斗演じる市役所のPLAN75申請窓口担当ヒロムは一生懸命働きながら、ホームレスが公園のベンチで横になれないように取り付ける手すりの形状に頭を悩ませている。ホームレスを締め出すための通称「排除アート」とも呼ばれる「座りにくいベンチ」は都市部に多く存在するし、彼はその意味に心のどこかで完全に折り合いをつけている。仕事だから。

そんな彼がかつての親戚が制度に申請したことを知り、制度に対しての考えを改めていく。彼が決定的な行動を取るところから、それまでピクリと動かなかったカメラが急に手持ちカメラの映像へと切り替わる。物語中盤まで完全にこの制度の外側にいたもう1人の登場人物、フィリピンから娘の手術費用のために出稼ぎに来ているマリアを捉えたカメラも同じく手持ちカメラだ。

この映画は人間性をカメラの揺れで表現している。人間は常に心のなかに疑問や苦悩を抱えて、完全に合理的に物事を判断することが不可能な生き物だ。そのために制度というものが生み出されたんだと思うが、ピクリともしない世界と揺れ動く世界、どちらの方が真に人間的であるのかは明らか。人間、自分の行動や考えに一切疑問を持たなくなったら終わりだ。

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