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お弁当を洗う30秒間だけ会話するおじさんのお話。

職場にはお弁当を持って行く。
一人での外食が苦手。ケチだから中食も苦手。
料理することは楽しいし、自炊した方が安い。
あとは、料理得意だとモテるかなあ、という少しの下心。
強いこだわりはないけれど、なんとなく毎日お弁当を職場に持って行く。

給湯室でお弁当箱を洗うことができる。これは良い。残業して帰ってからお弁当箱を洗うのはつらすぎる。

ある日、お弁当を洗っていると、一人のおじさんに話しかけられた。

「今日、お湯出ないんですよね。」

お湯の方が油汚れが落ちる気がする一方で、水でもなんとかなる。
曖昧な返事を返しながら、先に洗い終わった自分は給湯室を後にした。

また、次の日。
その日は、昼休みまで仕事が長引き、ほんの数分お弁当を食べるタイミングがズレた。
給湯室に向かうと、昨日のおじさん。

「今日はお湯出ますよ。」

給湯器の使い方は限られた者たちしか習得できていないようだ。そんな話をしながら、今度はおじさんが給湯室を後にするのを見送った。

次の日も。その次の日も。
お互いにお弁当箱を洗う30秒間だけ会話した。
毎日同じ時間に。

お弁当をちゃんと作っていて偉い、だとか。
娘は料理が苦手だから彼氏が可哀想、とか。
健康を心配されてお弁当箱を小さくされて物足りない、とか。
新しい洗剤の効力が薄い、とか。

そんな他愛のない話をするだけの時間。

ふと、相手の名前すら知らないことに気付いた。娘さんのことの方がよっぽど知っている。
お互いに「お弁当の人」でしかない。

でも、名前を聞いたらこの関係も何か変わってしまう。なんとなく、そんな気がする。

時々、会えない日がある。少し寂しい。
きっとテレワークかもしれない。
会えた日にはなぜか嬉しい。

職場は異動が激しい。
名前も知らないあのおじさんは、「お弁当の人」が異動になったことも知らずに、給湯器と格闘しながらお弁当箱を洗うのだろう。
あわよくば、たまに「あの人最近見ないなあ」なんて思い出してくれたりしたら、嬉しい。

自分も、職場でお弁当箱を洗うたびに、あのおじさんのことを思い出しては、何をしているのか思いを馳せるのかもしれない。

きっと、一種の恋。そう思う。

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