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『寝ても覚めても』

蓮實重彦の『見るレッスン』を読んで、
濱口竜介監督映画が気になり、(濱口竜介は、あの?『ドライブ・マイ・かー』の監督だった)

『寝ても覚めても』(2018)をDVDでみたんだが。

よくわかんなくて。
見終わってから、なんやらネットサーフィンしてた。

例によって(私の性分として)、
その映画の内容に関連したもの(レビューとか論評とか)だけでなくて、出演者や監督の経歴とかなんやらも見たりしてた。

そうして、
ふいに(全く偶然に)牛腸茂雄に行き当たってしまった。
そう。それはもう、どういう経緯からだったか思い出せなくなってしまっていて、全くの偶然としか言いようがない。
それで、牛腸茂雄は実在した写真家だった人の名前だと判った。

牛腸茂雄https://www.cine.co.jp/works1/selfandothers/

『寝ても覚めても』で、
朝子が麦と出会うシーンに、牛腸茂雄の写真展会場が使われていた。
朝子は、特に双子(と思われる)の写真の前で停止していた、そこに麦が現れる。

ともかく。
私の思ったところを先ずは書いてしまいたい。

牛腸茂雄が実在の人物だったと判明して、
唐突に、この映画が解った、気がした。

牛腸茂雄の写真をみれば解る、はずだ。

この映画は、そういう映画なんだと。

つまり。
何気ない日常と、そうではない非日常と、その境界で揺れる(というか行きつ戻りつする)女性の世界。
更に言ってしまえば、映画世界と現実世界との境界をも曖昧にしてしまっている、様にさえ思われる。

あの、2011年03.11の大震災の描き方はどうだろう。。
私は、初めは、直ぐには解らなかった。
あれ?もしかして、これって、このシーンって、あのことか?と。
舞台観劇ホールのシーンだけでは、勿論解らなかった。その後のシーンで、漸くってところ。その後に、朝子と亮介が東北へ向かって行くシーンがあったりする。やっぱりそうだったかと、判る様になっている。
けれども、ニュース報道(新聞やテレビとかの)を、二人が見ているシーンはない。

今ここにある世界が、次の時にはなくなっていることを、私達は、あの大震災で見せつけられた。

夢を見ていた?
しかし、そうではなくて、目覚めたと思っている自分の方が、実は夢の中のことではないのか?

麦は突然いなくなった。

そして、突然現れた。

あの、レストランのテーブルにも突然やってきて、朝子の手を引いていってしまう。
そうして、朝子は麦と共に北へ向かう。

そのまま亮介とは別れるのか?と思われたが・・・・
その後のシーンにも、見張るべきものがある、のだが、ここでは省略。

いったいに、なんだ?こりゃ?、だった。

けれど、
牛腸茂雄の写真、やっぱりなんだ?こりゃ?だったのだけれども、
牛腸茂雄の写真を見てみて(実際には私は単にネット内の画像を見ただけだが)、
その日常的なスナップ写真と思える様な写真が、どうして人を引き付けるのか?見入らせるのか?と思った時に、閃くものがあったのだ。

これは、正しく見てみるしかないものであり、正しく写真であり、正しく映画なのだ、そう思えた。

そういう意味において、
蓮實重彦は、『見るレッスン』の中で、この映画を取り上げている、と思えた。

しかるに、
『見るレッスン』については、別記したい。






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