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西川一三&矢島保治郎

先日、mixiの方で、上州の探検家矢島保治郎を知ったわけだが。

名前を知った順でいったら、西川一三の方のが早かった。

Facebookで、小諸市の方からだった。

沢木耕太郎の『天路の旅人』を読んでのことで。

その旅人にも勿論興味はあったが、私としては何よりも、沢木耕太郎の文章が好きだった。近々では、『凍』(山野井夫婦の生還物語)。

そうして、この『天路の旅人』には、なんと西川一三へのインタビューもある、らしいではないか!

これは、気になる。

まだ読んではいないので、日本帰国後、早速に読もう!と思っている。

ついては、

ここ、カトマンドゥのお寺に、西川一三著作本があった!から、読んでみた。

どぉ~~~~~~も・・・

私にとっては、文章が読みづらかった。

当時の現地情報としては貴重なものであるとは思うけれど。だから?ってなもんで。

本人自身の、自らの体験の考察は、殆どないに等しい。と思う。

ラストの方、日本帰国して、なんか神戸でお酒を飲んだ、それが一杯百円だった、で終わり。  

解説によれば、この本は抄訳らしくて、実際西川一三自身の著作本は上下二巻もの、だそうなのだが。

Wikipediaによれば、晩年、西川一三は盛岡在住だった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E4%B8%80%E4%B8%89

さて。矢島保治郎。

これは、矢島保治郎に関する写真展があった(たぶん去年前橋で)、というもの。

矢島保治郎(の足跡)に魅せられた写真家が、その足跡をたどったもの、らしい。

そこへ足を運んだミクトモ(実際面識あり)の方が、紹介していたものだが、そのミクトモの方は、矢島保治郎の娘さんと(小学校だったか?)お知り合いだった!

矢島保治郎は、チベットの軍人顧問として優遇され、ダライ・ラマの信任もあったそうだが、イギリスから矢島追放をせまられたダライ・ラマは、口では拒んでいたが、親英路線の当時のチベット世論は否定しがたく、矢島自らチベットを出た。

日本帰国後、群馬県で暮らしていたが(それは矢島にとっても不本意だった様だ)、何かといえば『やせても枯れても俺はチベットの陸軍大将だったんだぞ』が口ぐせで、周りからは奇人と見られていた、そうな。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%B3%B6%E4%BF%9D%E6%B2%BB%E9%83%8E

なお、矢島保治郎は、チベット人女性と結婚して一人娘がいたが、日本帰国後、その二人とも死去。

どーやら、その後にまた結婚していて、それで生まれた娘さんが、そのミクトモの方と同窓生。

西川一三の晩年も気になるところでありまして。

いずれにせよ、どちらも私は知らなかった人で、まことに興味深いわけです。

ついては。体験。経験。

どんなに壮絶な体験をしたにせよ、それだけで人生やっていけるわけではないわけで。

その体験を、自らどう生かすか、いかせないか、私はその体験だけではない、その人の人生に興味関心があるのです。

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