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短篇小説【閑話休題 西荻窪13時15分】

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今からかれこれ20年以上前の事。
世間知らずの次男坊だった俺は平和ボケしたやや足りない頭と、
無計画で安易な夢だけを持って不景気真っ只中の都会に
飛び出してきていた。
これはそんな俺が新築マンションの広告チラシをせこせこと他人様の宅の郵便ポストに投げ入れ日銭を稼ぎ、駆け出しの手品師をやっていた頃に聞いたちょっと不思議な話だ。
新宿から中央線快速で15分。西荻窪の北口改札から歩いて5分。
いやに細長い雑居ビルの地下にある小さな劇場がこの話の舞台だ。
そこは売れない漫才師や曲芸師、落語家や手品師などが日替わりで出演する場末の演芸場で、俺は三流の私大をやっと卒業したものの就職口が無く、
幼い頃から趣味でやっていた手品でどうにか食っていけないかと安易な考えで何度かこの劇場の舞台に立っていたのだった。
その日は朝から客足が重く、50席ある会場に人の姿は疎らだった。
トップバッターの前座修行中の落語家が汗びっしょりになりながら立て続けに二席演じて舞台を下りると、これまた売れない漫才コンビが慌てて舞台の中央にスタンドマイクを持って掛け出していった。
演者はプロと言っても下積み修行中の駆け出し芸人ばかりで、
客も近所の暇な老人か、
それに輪を掛けて暇を持て余している学生風情が多かった。
ちょっとテレビに出ている漫才師なんかが間違って舞台に上がったりすると、青田買いのお笑い好きの若者が客席に混じったりもしたが、
概ねのんびりとした、低調な空気がその劇場の常となっていたのだった。
「奇術師・マジカルX」
一体どんなイリュージョンを見せてくれるのかという様な大仰な名を名乗り、俺は恥ずかしげも無くステッキを花に変えたり、シルクハットから鳩を出したりしていた。
今考えれば相当に平和な時代だったのだが、その時の俺はそれなりに将来への不安を感じながら必死に生きているつもりだった。
舞台袖から薄暗い通路を通って階段を3段下りた突き当りの引き戸が出演者達の控室。
所謂楽屋だった。
俺はなけなしのバイト代で仕入れた新しい手品のネタを、
本番前にもう一度確認しようとアタッシュケースの蓋を開けて中身をまさぐっていた。
汗で背中にシャツがピッタリと張り付いた漫才コンビが楽屋に飛び帰ってくる。舞台は静まり返っていたのだが、彼等は他の芸人の手前大仕事を終えた満足感を顔に無理やり作っていた。
狭い楽屋の日に焼けた革張りのソファーには、
皆から師匠と呼ばれている痩せた漫談家と、
着物姿の女浪曲師が頻りに選挙の話で盛り上がっていた。
楽屋はいつも煙草の煙で霞み掛かっていて、誰かが持ち込んでくる安酒の鼻を衝く様なアルコールの匂いが立ち込めていた。
お世辞にも良い環境とは言えなかったが、
俺の様な駆け出しの手品師にとって客前で経験を積める場所は他にそうは無かった。
痩せた漫談師が小声で何か軽口を叩きながら舞台に消えていくと、
入れ替わる様に1人の老人が楽屋に入ってきた。
黒いボストンバックを引き摺る様にして、誰とも挨拶を交わす事無く楽屋の一番奥の鏡の前にちょこんと座った。
俺は何と無しにその老人の事をチラチラと見ながら、
新しい手品のネタの具合を確認していた。
老人はバックから水筒を取り出して、
湯気を立てる液体を紙コップに注いでちびちびと啜っていた。
「あの爺さんは何しにここへ来たんだろうか」
俺はその時初めて見た、まるで自分の家の居間で寛いでいるかの様な佇まいのその老人に少し興味を惹かれていた。
出番までまだ少し時間があったので、煙草に火を付けてパイプ椅子に深く座り、俺はしばらくその老人を観察して時間を潰す事にした。
この劇場で一番の古株と言えば、今まさに舞台に立って疎らな客席と対峙しているはずの痩せた漫談師だと聞いていた。
しかし鏡の前で謎の飲み物を一心不乱に啜る老人は、
明らかにその漫談師に輪を掛けた年恰好に見える。
今日の寄席の番組表を確認すると、漫談師の後に例の女浪曲師、
その後に「奇術師マジカルX」の名前があって、
中入り前のトリの所には「道化の六」とだけ書いてある。
何とも統一感の無い適当な取り合わせだと改めて思ったが、
楽屋の入り順から考えてもどうやらあの老人が「道化の六」と考えて間違いなさそうだった。
「道化って何だ?」
俺はその老人の事が益々気になってしまった。
老人は大きく欠伸をして、おもむろにボストンバックから何やら衣装の様な物を取り出した。
更に老人は着ている服を次々に脱ぎ出しては綺麗に畳んで床の上に重ねて置いていった。
白いブリーフ1枚だけになると、肩と首を念入りに回して準備運動をしてから赤と白のストライプの衣装を着込んでいった。
それは老人の体には少し大きすぎる様に見えた。
首の所にフランシスコ・ザビエルの様なフリフリの白い大きな襟が付いている。
更に老人はバックから真っ赤なアフロのカツラを取り出して鏡の前に丁寧に置くと、数種類の化粧品が入っていると思われる瓶を机に綺麗に並べ出した。俺は老人のその手慣れた一挙手一投足から目が離せなくなり、
次に何が起きるのかワクワクしながら目の端で観察を続けていた。
やがて痩せた漫談師がやはり軽口を叩きながら楽屋に帰って来たが、
俺の意識は既に鏡の前で真っ白のドーランを顔に塗りたくっている老人に集中していて他の事には気が回らなくなっていた。
女浪曲師が入れ替わりで楽屋を出ていくと、
漫談師は話し相手がいないので早々に荷物を持って出て行った。
老人は目の周りを黒い縁で囲み、
真っ赤な口紅を大袈裟に塗って鏡の前で大きく口角を上げて見せた。
「ピエロだ」
俺はその段階になってやっと老人の正体に合点がいった。
小さい頃にサーカスなんかで見たあの奇妙なキャラクターそのものだった。
老人がポケットから赤い付け鼻を取り出して顔を鏡に近付けたその時、
女浪曲師が扇子で顔を仰ぎながら楽屋に入って来て革のソファーにドカッと腰を下ろしたのが目に入った。
となると次は俺の出番という事だ。
老人のメイクの進行が気になっていたが、俺は手品道具を一通り纏めて急いで楽屋から薄暗い通路へと出て行った。
 
        2
 
俺が20年以上も前の話をこんなにまで克明に覚えているのには理由が2つある。
その日は俺の人生において決して忘れられない出来事が偶然重なった日だったからだ。
まるで才能が無い上に、大した努力もせず、何かを犠牲にする覚悟も当然無い若者がその夢を諦めて、全く別の道を歩むキッカケになった日。
そして時を同じくして遠く離れた故郷の鹿児島で俺の一番の理解者だったじいちゃんが心臓発作で死んだ日でもあったのだ。
じいちゃんは俺の下手くそな手品にいつも目を丸くして驚いてくれた最高の観客だった。
両親の反対を押し切って俺が羽田行の飛行機に乗り込むまさにその寸前に、へそくりの10万円を無理やりポケットにねじ込んでくれたのもじいちゃんだった。
そのじいちゃんが一番好きだったのが、
シルクハットから白い鳩を出す超古典的なネタ。
平和を愛するじいちゃんが、さつま芋畑で心臓発作に見舞われていたであろうその時刻に、俺は西荻窪の場末のステージで地獄を見ていた訳だ。
その日の舞台はそれまでで一番酷い出来だった。
練習不足のせいでもあったのだが、俺は何故か楽屋のピエロの事が頭から離れずに集中を欠いてしまっていた。
自分でも何がそれ程までに気になっていたのかは分からなかったが、
一旦リズムを掴み損ねると手品のネタは何もかもがちぐはぐになっていってしまった。
客席には最前列で爆睡しているサラリーマンや、
弁当を一心不乱に食べる老人の姿位しか無く、
間の抜けた音楽をバックにカードマジックを披露しても、
そもそも誰の目にもそれは届くはずもなかったのだった。
俺は持ち時間を大分に残して耐えきれなくなって舞台を後にした。
それは芸人として有るまじき行為に違いなかったが、
その時の俺にはあの客席の空気に耐える事が出来なかったのだ。
俺にとって手品とは所詮そんな物だった。
安易な考えに過ぎなかったのだ。
舞台袖の薄暗い通路がいつになく長く、そして冷たく感じた。
「俺は一体何をしているんだ」
あの全くウケていなかった漫才コンビの様な汗すら掛けずに逃げ帰ってきた自分の事が、その時ほど情けなく感じた事は無かった。
楽屋に入ると老人のピエロがテーブルの灰皿からシケモクを物色している所だった。
俺の顔を見ると老人は少し困った様な笑みを顔の端に浮かべたが、
メイクの所為でそれは泣いている様に見えた。
俺はこんな老いぼれにまで同情されたくは無いと思い、
老人を睨み付けてパイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
目の前に老人が履いている先が極端に曲がって上を向いた妙な靴が見えた。
俺は老人の存在にも、その珍妙な恰好にも無性に腹が立ってしまった。
大した努力もしていないくせに、
人一倍プライドだけは持っていた世間知らずの手品師は、
自分よりも惨めな人間を心から欲していたのだ。
老人は何か急用を思い出した様に鏡に向かい、
大急ぎで赤いアフロのカツラを頭に被せた。
その時多分ワザとであっただろうが、後ろ前を逆に被ってみせて俺の反応を伺っているのが分かった。
俺は当然それを笑ってあげられる様な気分では無かった。
老人は鏡越しにまだ睨んでいる俺の顔を見て、
大袈裟な動作で慌てたフリをしてバタバタと靴を鳴らしながら楽屋を出て行った。
「馬鹿にしてやがる」
俺は老人に軽んじられたと思って更に腹を立てていた。
「あいつだってウケる訳ない」
俺は老いぼれたピエロが舞台で困り果てる様を見てやりたいと思った。
俺と同じ目にあって意気消沈して帰って来るのを今度こそ腹の底から笑ってやりたいと思ったのだ。
俺は楽屋からまた暗い通路を戻って舞台袖に行った。
そこから眩しい照明に照らされた赤いアフロのカツラをつけたピエロの姿が見えた。
ピエロは風船を膨らませてはそれを尻に挟んで割っていた。
自分で割っているのに酷く驚いたフリをして、
それを何度も何度も繰り返していた。
「一体、何が面白いんだ?これ」
俺は煙草の煙を吐きながら、赤と白のストライプの背中が右往左往するのをボンヤリとそこから眺めていた。
暗い場所から光の当たる舞台を眺めていると、
何だか夢を見ている様な気分になった。
ピエロは相も変わらず意味不明の行動を繰り返し、
客は皆ポカンとした表情を浮かべてそれを見ていた。
「おい、どうすんだよ。すごい空気になってるぞ」
俺は段々と馬鹿らしくなってきた。
自分よりも幾らか悲惨な目にあったであろう老人を笑っても、
そんなに気が晴れない事にその時ようやく気が付いたのだった。
「馬鹿馬鹿しいな、本当に」
俺はもう家に帰ろうと思い楽屋の方へ足を一歩踏み出した。
その時舞台の方から何か大きな物音がしたのだ。
振り返ると舞台の中央でピエロがうつ伏せに倒れていた。
俺は死んだ振りか何かだと思った。
その姿は滑稽な道化の恰好でもあったし、
口を利かないパントマイムの芸なので大袈裟なアクションで笑いを誘っているのかと思ったのだ。
客席からは何のリアクションも無かった。
それ以前に誰もピエロの意図を汲もうとなど考えていなかったのだと思う。ピエロは倒れたまま動かなかった。
俺は客もウケて無いし、早く起き上がって他の事をした方が良いと何となく考えていた。
やがて客席から1人の老婆が舞台に近付いてきてピエロに声を掛けた。
「大丈夫?あんた、大丈夫かい?」
それを見て初めて何人かの客が笑い声を上げた。
それでもピエロは動かない。俺はその時になってやっと何かおかしいと感じた。
反対側の舞台袖からスタッフが2人、舞台のピエロに駆け寄った。
客席の疎らな客達もザワザワとし始めた。
「おい、マジで倒れたのかよ」
ピエロがスタッフに抱えられて俺の目の前を通って楽屋に運ばれていった。
西荻窪から1000キロ離れた鹿児島の畑でじいちゃんが倒れていたであろう丁度同じ頃合いに、そのピエロも場末のステージでいきなり倒れたのだ。呆気に取られていた俺の足元に、ピエロの鼻から落ちたであろう赤い付け鼻が転がってきた。
 
        3
 
人生が偶然に支配されるのは必然である。
これは俺が昔読んだ自己啓発本で唯一心に残っていた言葉だ。
俺の取るに足らない人生にも、
この偶然というやつが必然的に訪れたという訳だ。
恐る恐る楽屋の引き戸から中を覗くと、
スタッフがソファーに寝かしつけたピエロの心臓に耳を当てていた。
「まさか、死んだ?」
俺は思わずバタバタと音を立てて中に入っていった。
「爺さん、死んだんですか?」
俺の声は自分でも意外な程狼狽えていた。
「いや、大丈夫、心臓の音はするし、呼吸もしてる」
スタッフの声も少し上ずっていて、
どうして良いのか分からない様子だった。
「救急車呼んだんですか?」
俺はメイクで顔色の判別が付かない爺さんの顔を覗き込みながら言った。
「ああ、今もう1人のスタッフが電話しに行ってる」
目を固く閉じた爺さんの胸の辺りが確かに呼吸で上下に揺れているのが分かった。
「貧血・・ってこと無いか。いや、どうしたんだろう」
俺は深刻な状況に反して、ピエロの恰好で倒れている爺さんの姿が少し可笑しくなってきてしまった。
何事にも現実感の不足から、シリアスな状況を避けてしまう所が当時の俺にはあった様に思う。
それは若者によくある風潮とも言えたが、
俺はそれに輪を掛けて目の前のリアリティから逃避してしまう癖が付いていた。
「君、ちょっとこの人の事お願い出来るかな?私は舞台でお客さんに説明して来なくちゃならないんで」
場末の演芸場ならではの人員不足。
楽屋には俺しか残っていなかったので当然の展開ではあるが、
巻き込まれてしまってから俺は初めて事の重要さに恐れをなした。
相変わらず爺さんは微動だにせず、意識は戻っていなかった。
スタッフが楽屋から出て行くと、不安は更に増して言った。
「もし今、この人が死んだら最期を看取ったのが俺って事になるじゃん。何か責任問われたりしねえかな」
俺は頭掻きむしりながら天井を仰ぎ見た。
地下の薄暗い楽屋の蛍光灯がチカチカと明滅している。
気持ちを落ち着かせようとポケットから煙草を1本取り出したが、
急病人のいる前で吸っていいのか迷った。
爺さんの様子を改めて見ると、ピエロは笑っている様にも泣いている様にも見えた。
こんな恰好で死んだらそれこそ滑稽な冗談の様だと俺は思った。
結局煙草に火を点けて大きく煙を吐き出すと、
俺は辺りが妙に静かな事に気が付いた。
舞台の方からも何の物音もして来ない。
さっきのスタッフのアナウンスも聞こえてこなかった。
壁の時計を見ると13時15分を差していた。
いつの間にそんな時間になっていたのだろうと俺は不思議に思った。
確か俺の出番が10時の筈だった。
いくら何でもそれから3時間も経った様には思えない。
俺は外の様子を見に行こうと立ち上がって引き戸に手を掛けた。
その瞬間、突然背後から声を掛けられた。
「君はどうして手品師になったんだい?」
俺は飛び上がる程に驚いてしまった。
いや、実際20センチ位は飛び上がっていたと思う。
何なら情けない悲鳴も上げていたかも知れない。
振り返るとソファーで死んだように寝てた筈の爺さんが、
鏡の前の椅子に足を組んで座り俺の方をじっと見ていた。
それはまるで半生を語る為にインタビューを受けている大物芸人の様な貫禄すら感じさせる光景だった。
「おい、あんた大丈夫なのか?頭とか打ってるんじゃないか?」
俺は何が起きているのか分からずに混乱していた。
さっきまでの爺さんの状態は決して演技の様には見えなかったし、
今目の前にいる自信に満ちたピエロがまるで別人の様に思えた。
「私は大丈夫だ。今日は私の死ぬ日じゃない。勿論君の死ぬ日でもない。世界中の至る所で今も人は死んでいるが、今日は私達の番ではない」
爺さんは俺の目を真っ直ぐ見ながらゆっくりとそう言ったが、
俺はやっぱり頭でも打ったんじゃないかと思った。
「今、一応救急車呼んでるみたいだから。病院行った方がいいよ。覚えてます?舞台で急にぶっ倒れたの」
俺は爺さんの言っている事は何一つ理解出来なかったが、
とにかく爺さんが元気そうなので一安心した。
「私はここの舞台は初めてでね。長くアメリカの田舎を回っていたんだ。世界中の舞台を見てみたいと考えてね。ピエロの芸には言葉は要らないから。なんせ1度は無くした命だからね、拾い物の延長戦の人生を思いっきり謳歌したかったんだよ」
この調子で爺さんは次々と聞いてもいない話を浪々と語り続けた。
俺は口を挟む余地すら与えられなかった。
「あれは私が大学を出た年の秋口の事だった。まだ戦争の爪痕が残る神戸でね。新聞社で見習いをやってたんだが、私は肺を病んで床に伏せていた。病状は芳しくなく、日々体力は衰えていった。薬も不足していてね。もう長くはないんじゃないかと覚悟を決めていたよ」
爺さんは目を細め遠い記憶を手繰り寄せる様に静かに語っていた。
俺は何故かその話に大人しく耳を貸していた。
時間の感覚が無くなった様で、妙な浮遊感を感じていた。
「その病院の敷地内に小児病棟があってね、当時は今の様に医学も発達していなかったから、可哀そうに幼くして助からない命も沢山あったんだ。私もそんな状態だったけど、それでも体調がいい日なんかは、よく子供達に本を読んだり、一緒に遊んだりしていたんだ。そんなある日、小児病棟にサーカスの団員達が慰問に来たんだよ」
俺は爺さんの話をボンヤリと聞いている内に、
目の前にありありとその情景が浮かんでくるのに驚いていた。
爺さんの声は温かみがあって滑らかで、
何の抵抗も無くスッと心に染み入ってくる様だった。
「病院の中庭でちょっとしたサーカス興行が始まったんだ。怪力男がバーベルを振り上げ、その横では剣を呑み込む男もいた。まるで骨が無い様にクネクネと体を丸める女がいて、頭を綺麗に剃り上げた若い男は口から火を吹いた。子供達は勿論、私達大人も皆拍手喝采で大喜びさ。サーカスの団長の肩では子猿がずっとバック転をしていて。その中でも特に子供達が夢中になったのが1人のピエロだったんだよ。彼は他の団員の様に特別な事が出来る訳では無い。必死に真似ようとしてバーベルに躓き、剣を取り落とし、体を丸めようとしては転び、あげく若い男の口から噴き出した火で着ていた赤い服の裾を焦がしていた。でも彼が失敗する度に子供達は大はしゃぎ。大人達も、私も腹を抱えて笑った。子猿に追い掛けられて泣きながら逃げ回るピエロの演技は本当に可笑しかったよ。最高だった」
爺さんは目を閉じて、一つの一つのシーンを情感たっぷりと語っていた。
俺は何時しかその話にすっかり心を奪われていた。
薄暗い楽屋はまるで深い山中の丸太小屋の様に静かで、
暖炉の火にでもあたっているかの様な安らぎすら感じていた。
「その時、私はこう思ったんだ。もし病を生き延びて命が続くなら、ピエロになって誰かの為に泣きながら走り回ろうと。私の人生はその時音を立てて変化し始めたんだよ」
その時爺さんが俺の方に両方の手の平を広げて見せた。
そして一旦手を握って再び素早く手の平を広げると右手の人差し指と中指の間に煙草が1本挟まれていた。
左手の人差し指を煙草の先端に近付けると火が点いた。
そうして実に旨そうに煙を肺に送り込み、一気に吐き出す。
その華麗な指使いは手品師である俺でも驚く程の滑らかさだった。
「私はその後、病を克服してあの時のサーカス団を必死に探したんだ。当時は色んな意味で混乱期だったからね。中々見つからなかった。それでも私は大阪にあった喜劇楽団に入って道化師の修行をしたんだ。才能はなかったが、その分人一倍努力はした。いろんなサーカスを渡り歩いて芸を磨いていった。私は空襲を生き延びて、病も生き延びて、命を拾い続けてきた事に意味があると思っていたんだ。人を笑わせたい。ただそれだけで人生に大きな意味が生まれた様な気がしたんだ」
俺は気が付くと目に涙を浮かべて爺さんの話を聞いていた。
信じられない事にどうしようもなく感動していたのだ。
「君はどうして手品師になったんだい?」
爺さんが改めて俺に言った。
「俺は・・・じいちゃんが褒めてくれたからだと思う。小さい頃からテレビで見た手品師に憧れて真似していて、小遣いでちょくちょくタネを買い集めたりしてて、じいちゃんは帽子から鳩を出すと何度も飽きずに驚いてくれて・・それで何となく続けてるって言うか・・そんな感じです」
俺は小さい頃夏休みの度に遊びに行った鹿児島のじいちゃんの家のだだっ広い居間の風景を思い出していた。
あの頃はまだばあちゃんも生きていて、
一緒になって手品を見てくれていた。
縁側からは遠くに桜島の煙が見えた。
真っ青な空に白い雲と灰色の煙が混ざり合っていた。
強すぎる日差しと蝉の鳴き声。
家族皆が何度も麦茶を出し入れする冷蔵庫の扉の音。
テレビの高校野球の実況。
仏間の線香の匂い。
その時俺は過ぎ去ってしまった日々の一つ一つが今に繋がっていた事を思い出した。
手品もそんなものの一つだったが、
俺はもうあの頃の様に夢中では無かった。
俺は何だか無性に時間が惜しい様な気持ちになっていた。
そしてそれは胸を圧し潰す様な、生まれて初めて感じる様な強烈なものだった。
「私はあのピエロをずっと探し続けたんだけどね。結局見つからなかった。それどころかあのサーカス団の事すら分からなかった。病院にも勿論問い合わせたがね。誰一人分からないと言うんだね。全く不思議な話だったけど、段々と私は夢を見ていたのかも知れないと思って。記憶というのは実に曖昧なものだからね。あの頃の私は本当に自分の未来を諦めかけていたからね。神様がくれた奇跡だといつからか思う様になっていたんだ。そして私はたった一人で世界中を旅して回ったんだよ」
爺さんはそこで大きく息を吐いて目を閉じた。
俺も大きく深呼吸をした。
体から何か古い塊が出て、そこへ新しい何かが取り込まれた様な気がした。
その時、突然楽屋の引き戸が勢いよく開けられた。
俺はビクっとして、手に持っていた煙草の灰がゆっくりと床に落ちるのを目で追った。
戸口に先程の劇場のスタッフとヘルメットを被った白衣の男が立っていた。
「ああ、君見ててくれてありがとう。救急車来たから、もう大丈夫だよ」
スタッフが俺に早口で言った。
俺は一瞬その男が何を言っているのか分からなかった。
そしてああ、爺さんならもう大丈夫だと伝えようと後ろを振り返った。
爺さんは鏡の前では無く、また日に焼けたソファーに横になっていた。
「あれ?爺さん?」
俺の横を救急隊員が素早く擦り抜けた。
爺さんの手を取り脈を取っている。
もう1人隊員が楽屋の外にストレッチャーを運んできたのが見えた。
俺は無意識に壁の時計を見た。
13時15分。よく見るとその時計の秒針は止まっていた。
「残念ですが、既にお亡くなりになっています。御家族に連絡取れますか?」
脈を取っていた隊員が静かに言った。
「いや、マジですか?あ、ちょっと事務所に連絡入れてみますので、ええ、ちょっと、ちょっと待ってて下さい」
劇場のスタッフがそう言って慌てて楽屋から出て行った。
「あなたは関係者の方ですか?」
隊員が今度は俺に話し掛けて来た。
俺はその時頭が真っ白になっていた。
何が何だか分からずにその後どうやってその老人が運び出されていったのかも覚えていない。
ただ老人の話を何度も頭の中で反芻して、
その景色の確かな実感だけ確かめていた様に記憶している。
その日の夜、疲れ果ててアパートに帰ると留守番電話が12件も吹き込まれていた。
電話は実家の両親からで、鹿児島のじいちゃんが今日亡くなったという知らせだった。
 
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20年以上経った今でも、あの日の事は不思議だらけで整理がつかないが、俺は結局あれ以来手品を辞めてしまった。
それは悲しいとか悔しいではなくて、何かスッと心から抜け落ちた様な感覚だった。
あれから色んな仕事を経験して、結婚もし、娘も授かった。
あのピエロの爺さんは最期の舞台でどんな景色をみたのだろう。
最近になってよくそう考える。
同じ日の俺の最期の舞台からの景色は思い出したくも無い様なものだったけど、あの爺さんは本当に生き生きと尻で風船を割っていた。
それは誰にでも出来る事では無いと思う。
俺は何となく趣味で始めた小説の執筆でいつの間にか飯を食う様になっていた。
生きていると何が起きるかは分からないものだ。
近頃妙にあの日の事を思い出す。
あの日、爺さんは今日は私の死ぬ日ではないとはっきりと言っていた。
俺もいつからかそんな風に最期の日を迎えられたらいいなと考える様になっていた。
俺はあの時の爺さんの様に素晴らしい声と表情で物語を語る事はまだ出来ないけど。
いつかピエロが世界を救う話でも書いてみようかと思ったり。
相も変わらず思い通りにならない事ばかりの日々ではあるが、
それはそれで人生は退屈させないと俺も最近は思える様になった。
俺は「道化の六」に一つ教えて貰ったのかも知れない。
人は誰でも泣きながら笑い、笑いながら泣いているのだと。

         完

illustration by chisa

あとがき

こんにちは。ころっぷです。
この度は【閑話休題 西荻窪13時15分】を読んで頂き、
誠にありがとうございます。
今回はまたショート・ショートのノリで
笑える物語をと思って書き出したのですが、
またもや予想外の展開になってしまいました。
どうも不思議な物語に吸い寄せられてしまう癖がある様です。

小説を書き出して1年が経ちましたが、慣れるという事がありません。
常に頭を悩ませながら試行錯誤の連続です。
それでも作品がまた一つ、もう一つと増えていくのは
最上の喜びです。
また次回作でお会い出来るのを楽しみに。

2023・10・29 ころっぷ



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