見出し画像

三田三郎『鬼と踊る』歌集評②~「人生」から「人生(Part2)」までを読む(文・クサナギ)

泥酔と日常の反復横跳び

文: クサナギ

「鬼と踊る」を通読して、目を引かれるのはやはり飲酒をテーマとした連作群だろう。私も酒飲みだと自負しているのだが、それにしても「酒」というテーマ詠でここまで歌をつくれるものかと感嘆してしまった。

歯で噛んだり舌で潰したりしなくてもいいからいい 液体はいい

「肝臓のブルース」より

例えばこの歌は、一首単体で読むとお酒の歌とはわからない。上の句を贅沢に使って口の中の感覚に焦点を当てていて、官能的な感じさえ受ける歌だ。だがその前の歌と合わせて読むと、お酒にのめり込んで咀嚼すらめんどくさくなったような主体の姿が浮かび上がってくる。四句目は「いいからいい」と六音である。音数が足りない歌はあまりよしとされないが、後の一字空けとも相まって、酔っぱらって舌ったらずになっていく感じがよくあらわされている。
「肝臓のブルース」「二日酔いのエレジー」という二つの連作で、昼酒でどんどん酔いが加速して前後不覚になっていく様子、そして翌日二日酔いで後悔するまでの流れがスピード感をもって表現されている。

これらの「飲酒」連作が光って見えるのは、やはりこの歌の後に来る日常詠のおもしろさあってこそだろう。平日の鬱屈があってこそ酒が引き立つ。現実と同じである。目次を見てみると三田が明確な意図をもって連作を並べていることがわかる。「人生」以降の流れを追って見てみよう。

  1. 「人生」という一首

  2. 飲酒をテーマとした連作「肝臓のブルース」

  3. 後日談としての連作「二日酔いのエレジー」

  4. 日常をテーマとした連作「僕の歌」「せめてあくびを」

  5. 飲酒をテーマとした連作「闘争的飲酒の夜」

  6. 後日談としての連作「頻尿の季節」

  7. 「人生(Part2)」という一首

「人生」全体を俯瞰するようなアイロニカルな一首に挟まれて、〈泥酔→二日酔い→日常→日常→泥酔→二日酔い〉と連作が並んでいる。日常詠を中心としたシンメトリー的な構造になっているのだ。この徹底した構成に唸ってしまう。もちろんどの歌集も、連作の並びは考えられているだろうが、「鬼と踊る」ほどの意志を持って全体が構成されている歌集はなかなかないのではないだろうか。というよりむしろ、「人生」から「人生(Part2)」までが一つの連作としてつくられていて、構成をさらにはっきりと示すために各連作のタイトルを挿入した、と考えるのが自然な気もする。この、「執拗な」とまで言えそうな八つの連作の構成が、まさに(我々の)繰り返しの人生をあらわしている。主体は今日もまた〈泥酔→二日酔い→日常→日常→泥酔→二日酔い〉のスパイラルの中で暮らし続けているのだろうなと想像してしまった。

さらに驚くべきことに、日常詠の連作である「僕の歌」「せめてあくびを」をじっくり見てみると、ここでもかなり繰り返しを意図して連作が構成されていることがわかる。

「僕の歌」は十二首からなる連作である。その一首目は「赤ちゃんの泣いている声で目が覚める~」と、朝に目覚めるときの景である。そして最後の十二首目は「夜通しでうめき続ける冷蔵庫~」と、夜眠りにつく時間帯の歌で終わる。「僕」の一日をたどっていく連作であることが明確に示される。そして、この十二首の全てに「僕」という語が入っている。

窓口の謝り慣れた職員に僕も負けじと謝り倒す

「僕の歌」より

この歌と同様に、他の歌も基本的には〈「僕」のやり方対誰かのやり方〉という構図になっている。「職員」だけではなく、「プーチン」「ソムリエ」「球児」などバリエーション豊かだ。そしてその対象は人間だけではない。「冷蔵庫」「髪の毛」のような無機物も擬人化され、自分と比較される
他者として登場する。他者に言及することで、それとは対称な「僕」の在り方、生き方が浮き彫りにされるという仕組みなのである。

連作「僕の歌」で、「僕」の朝から夜までの長い一日が描写された。そして続く「せめてあくびを」も、まったく同様に朝の歌から始まり、夜の歌で終わる十二首連作なのである。繰り返しの毎日。同じ構成の連作を二回繰り返すことで、それをしつこくしつこく表現している。「せめてあくびを」という標題になっている歌は、連作の五首目に置かれている。

歯を食いしばったら顎が痛むからどうか笑いをせめてあくびを

「せめてあくびを」より

下の句の「どうか笑いをせめてあくびを」のリズム感が気持ちよく、口ずさみたくなってしまう歌だ。内容も悲哀の中に投げやりなポジティブさがあり、好きな一首だ。この歌が〈笑いORあくび〉の二択になっているように、この連作では二つの選択を並べて示して見せるような歌が頻出する。A か B か、もしくは A ではなく B という言い直しが多用されている。

右の靴が脱げて路上に立ちつくす 履き直そうか 左も脱ごうか
屈辱の刻印としてのニキビ跡 消えればよいか残ればよいか

「せめてあくびを」より

繰り返しの毎日でも、我々はささいな選択を繰り返して生きている。この連作はそのことに思い至らせてくれる。ニキビ跡くらいのことで「消えればよいか残ればよいか」はドラマチックすぎる気もするのだが、歌集全体を通してこの大げさにおどけてみせる姿勢が徹底して貫かれている。それも計算されつくした構成で。ひとりの生活者としてのなけなしの矜持を感じさせてくれる歌集だと感じた。(了)

#短歌
#歌集評
#読書感想文

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?