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むきだしの感情(今橋愛『O脚の膝』書評)

 今橋愛の歌が好きだ。好きすぎて、なかなかこの『O脚の膝』という歌集に手が出せなかった。買ってはいたものの、読んで打ちのめされるのが怖かったのである。腹を決めて読んだらやっぱりノックアウトされたけれど、どのようなところに心動かされたか、一ファンとして忘れないうちに書き留めてみる。

独特の文体からにじみ出すもの

 まずこの歌集を開いて驚くのが、その独特の文体である。ひらがなや改行、句読点を多用してつくられた歌が多いので、初めて今橋の歌を見たときは思わず「短歌って一行で書くものじゃないの?!」とぎょっとしたのを覚えている。例えばこういう歌がある。

くもがねー
ちぎれて足跡のようだよ。
こんとんをどけたあとがみたいの。

『O脚の膝』P.39より

 まるで幼い子が、舌ったらずに喋っているような文体だ。にも関わらず、下句で突然「こんとんをどけたあとがみたいの。」と来る。「混沌をどけた後(跡)が見たいの。」だろうか。幼く感じる文体と、内容とのギャップにどきどきしてしまう。どういう意味か読み解けてはいないのだけど、好きな歌の一つだ。
 この歌を読むと一瞬、頭の中で漢字に変換して意味を捉えようとする時間が生まれる。つまり内容をある程度理解するまでに、他の短歌よりも時間がかかるのだけど、それこそがこの歌の魅力だと思う。文体の面白さが特に生きていると思う歌は他にもある。

したうちをされた。
朝は忙しいけど
したうちはしたらいけない

『O脚の膝』P.62より

 これは「ただごと歌」というカテゴリに属する内容の歌だといえるかもしれない。しかし、内容としては単純なこの歌に、文体の幼さが狂気をプラスしていると思う。この後舌打ちをした人間が、主体に殺されたりしていないといいけど……と心配してしまうのは私だけだろうか。例えば、この歌が一般的な短歌の文体で書かれていたらどうだろう。

舌打ちをされた 朝は忙しいけど舌打ちはしたらいけない

 こうなると、人の振り見て我が振り直せという感じで、単なる日常のつぶやき感が強く出る気がする。やはり句点やひらがなの多用がこの歌に凄みをもたらしていると思う。

読者側に突っ込ませる

 私は以前、感情を表す形容詞(悲しい、楽しいなど)を直接的に詠み込んで短歌を作るのは避けた方がよいと教わったことがある。「悲しい」と言わずに、その悲しさをどう別の言い方で表現するか。それこそが短歌の工夫のしどころだからだ。ところがその掟をさらっと破り、今橋の歌には「やさしい」「かなしい」といった、感情をあらわす形容詞がよく登場する。ただよく読むと、その形容詞の使い方や登場するタイミングが、少し一般とは違うような気がする。例えばこの歌でもそうだ。

ねむれずにひやあせかいているときの
小鳥けんきょでもろい
かわいい

『O脚の膝』P.117より

 小鳥が眠れずに冷や汗をかいているのか、それとも自分が眠れずに冷や汗をかいていて小鳥を見たのか、状況がまずよくわからない。しかもその小鳥に対して、「脆いからかわいい」という評価がつけられているのだが、その判断基準もよくわからない。主体の嗜虐性すら感じられる文章だ。わからない状況に、わからない感情をぶつけて、勢いよく読者を置いてけぼりにして走り出す。短歌の中でオチをつけるのではなく、読者に「それってどういうこと?」と突っ込ませることで完結する。それこそが今橋の歌の面白さだと思う。
 作中主体の感情に置いてきぼりにされる歌といえば、これもある。

ねこ かわいい。
おもった。
かわいい。
ゆるせない。
むちゃくちゃにしてゆるせなかった

『O脚の膝』P.124より

  「ねこ かわいい/おもった。/かわいい。」まではなんとか並走しているつもりだったのに、「ゆるせない。」で急に主体だけ別のコースに走って行ってしまった……もしくは、友達と話していたつもりだったけど、いつの間にか知らない人が目の前にいた……というような置いてきぼり感がある。「猫って可愛くてついちょっかい出したくなっちゃうよね」というレベルではなく、この「ゆるせない。」からは殺意すら感じられる。怖くて、とっても好きな歌の一つだ。

名は体をあらわす

 「今橋愛」という筆名は、本当に今橋のつくる歌にぴったりだと思う。今橋自身もそのことを意識しているのか、『O脚の膝』に収録されている中にはこういう歌がある。

よくわからなくなるんだけど
マユリーがわらった。から
今 愛でよかった。

『O脚の膝』P.180より

 この歌はその前に置かれた歌と強く関連した歌なので、ぜひ読んだときに確かめてほしい。この歌が指すように、今橋は「今」を、そして世界に対する「愛」を率直に詠む歌人なのだなと思っている。「愛」というのは何も人に対する愛情だけではなくて、自分の中の残酷な一面やぎらぎらした欲望、心もとなさ、そういった自分の中に湧き上がるすべての感情のことだ。いまこの瞬間に発露した感情を、道徳規範や論理のフィルターを通すことなくそのままの強さで、自分なりの言葉で描き切っている。『O脚の膝』はむき出しの感情に触れられる、力強さのある歌集だ。(文・クサナギ)


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