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立川を行けばアートにあたる

文:シゲフミ

 立川といえば、南北に多摩モノレールの発着駅で囲まれる、JR中央線の停車駅。駅ビルに家電量販店、徒歩圏内には商業施設とライフラインが一揃い。少し行けばオフィス街、広大な敷地を誇る昭和記念公園、都内にいち早く新出してきたIKEA。さらに一駅先には市役所の手前、文理を問わず、いくつかの研究所だって居を構えている。しかし、実は現代アートの居並ぶ街でもある。

北口駅前は現代美術の集積地

 なんでも努めてパブリック・アートの設置を推進させた経緯があるそうで、意識を向けさえすれば、そこかしこで確認できる。JRの駅北口から商業ビルの間をまっすぐ抜けて、伊勢丹の脇を通り過ぎると、高島屋の近辺はもうメイン会場だ。どこへ向かおうが、途上でおや街中に妙なものがある、と感じたならば、だいたい該当すると思ってくれて構わない。

リチャード・ウィルソン(無題)

 例えば高島屋の裏手の通り向かい、ビルの外壁に沿ってどこにも上っていけない階段がある。しかし、随分アルミ然としていて光沢を帯び、単なる施工ミスだとか経年劣化のなれの果て――むしろ鑑賞者に価値を見出される、いわゆるトマソン――とは言いがたい。実際、芸術作品として作られ、そこに位置することを求められた。制作者は、リチャード・ウィルソン(Wilson, Richard 1953-)。周辺のパブリック・アートの多分に漏れず、機能性を備えており、こちらは排気口を兼ねている。ただ上辺だけなぞっているばかりでもなく、地下には機械室へ降りていくために、正真正銘の階段があるという。

ロバート・ラウシェンバーグ「自転車もどき VI」

 近くでは、暗くなるとネオンに輝く自転車が宙に浮いている。ロバート・ラウシェンバーグ(Rauschenberg, Robert 1925 - 2008)の「自転車もどき VI」(1994)である。こんなビカビカと具象的で、分かりやすい標識もないだろう。側に駐輪場があるのだ。

山口啓介「Tachikawa Box」

 かと思えば、多層構造になっており、今昔の様子が重ね合わされ、比べて見るよう迫られる駅前案内図もある。山口啓介(Yamaguchi, Keisuke 1962-)の「Tachikawa Box」(1994)だ。

中央に見える黒い円がフェリーチェ・ヴァリーニ「背中あわせの円」、左に見えるネオンサインがスティーヴン・アントナコスの「Thio-2」

 さらに駅から遠ざかるようにして、横断歩道を渡ってから振り返ると、急に黒い円が見えるようになる。フェリーチェ・ヴァリーニ(Varini, Felice 1952-)の「背中あわせの円」(1994)は、ちょっとしたトリックアートで、ある地点でしか成立しない。夜闇に一際目立つ、直線や弧を描くネオンサインも、やはりスティーヴン・アントナコス(Antonakos, Stephen 1926-2013)の作品「Thio-2」(1994)である。フラリと立川駅前北側を歩いてみれば、何の気なしにでもアートにあたる。

意味と文脈と、「今・ここ」で観るということ

 そこから、やや離れたところにあるのが、コンセプチュアル・アートの大家とされる、ジョセフ・コスース(Kosuth, Joseph 1945-)の作品だ。数あるコスース作品の中でも、いっとう有名なのは、恐らく「1つと3つの椅子」(1965)だろう。これがめっぽう面白く、別に美術館で椅子一脚と、他にまとめて三脚が除けて飾られてある、とかいうのではない。実体を伴った椅子が一脚と、実物大の写真が一枚、辞書の項目からの引用――一般に椅子とは何かという記述が書き起こされた、テキスト一片から成る。まあ椅子だよね、確かにね。どれもそう、でも本当に同じか――違うよな。ただ、この話を始めると長くなるので、詳しくは割愛する。とはいえ、頑張って一言に留めておくと、恐らく抽象・具象の水準と、メタに表現する場合の代替可能手段の違い、の辺りがテーマではないかと思わせてくれる。我々は「椅子なるもの」について述べる時、その現れとして写実的にも、取り決められた別の形式を用いても示せるし、何なら、個別の物体を持ってくることもできる。要は、ある一定の共通理解を得た概念の、多分に静的な“意味作用”を作品化したもの、ということだ。
 対して文脈が問われるのこそ、ここ立川の「呪文、ノエマのために(テキスト:石牟礼道子「椿の海の記」、ジェームズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」)」(1994)である。

ジョセフ・コスース「呪文、ノエマのために
(テキスト:石牟礼道子「椿の海の記」、ジェームズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」)」

 ペデストリアンデッキの傍ら、駐車場のコンクリート壁には日本語と英語で二つの文言が刻まれている。上が日本語、下が英語による表記で、それぞれの言語で2作品からの引用は、続けて読むように促す配置だ。試しに日英で対応させてみようと思えば、一見して同じスタート地点にもかかわらず、どんどん場所がズレていく。どうも石牟礼による文は、英訳した方が長かったようだ。何にせよ、舞台にせよ執筆地にせよ、それぞれ描かれた時間・空間の違うテキストが、これまた場所を異にする立川の片隅に現れることにより、いったい何が読み込まれるに至るというのか? 抜粋された2つの引用文は、何だか関連がありそうに見えて、思わず頭を捻る。
 これが短歌でいうと本歌取り、文学一般なら翻案と呼ばれる営みに違いない。他に、音楽に振れば変奏、編曲、サンプリング、リミックス、何かと賛否両論を呼びがちなメディア・ミックスも、元々あったところから引っこ抜いてきて、新たに植え替えるという点では皆、同じ。持ってこられた要素はどんなものか、移植先ではどのように表現されているか、どう解釈される余地があるか等々、本来、好悪と分けて考慮され、別に価値判断の下されるところである。先ほどの「1つと3つの椅子」に比べると、「呪文、ノエマのために」は“意味理解”の動的な側面を捉えた作品とでも言えそうだ。なお、一応は壁面装飾としての機能を持たされているらしい。

 立川のどこへ向かおうが、その途上に、いつでもアートの場は開かれていた。どのタイミングで気づき、どのように受け止めるのかは、しばしば目的地への道を急ぎ、路傍の様子に目もくれない我々に、ただ委ねられているのかも知れない。(了)


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