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幸せが溢れすぎたこの世界で

 こんにちは。
 ぼんやりと生きていると、ぼんやりと死にたくなりますよね。
 もしかするとこれは、あまり一般的な気持ちではなく、私を含むほんの一部の人たちだけが共感できる気持ちかもしれません。

 そもそもとして、毎日の暮らしに対し、満足してはいないけど不満というほどでもない、みたいな人がほとんどを占めているのだろうと思っています。それがいわゆる『普通』というやつ。
 しかし私は、今の生活は十分に恵まれているので、満足しなければならないと思い詰める一方、今のままの自分ではいけない、自分を変えていかなければならないと責め立ててもいます。とても生き難い。

 生活に対しての不満を持つのは贅沢だから、してはいけない。
 今の自分に満足するのは傲慢だから、してはいけない。

 息が詰まる毎日です。


字が書けるってすごいこと

 日本を含む主要国では、もう長い間、識字率の調査はされていないことが多いようです。
 教育が充実したためですね。特に日本では義務教育と言われ、親は子どもに小中学校へ通わせる義務が生じています。学校を卒業したはず、卒業したのなら識字くらいできるはずと見なされ、日本を含む先進国の識字率はほぼ100%だろうと言われています。

 今でこそ『当たり前』になった読み書きですが、識字率の調査という概念が存在する時点で、過去には読み書きが出来ない人の方が当たり前の時代もあったということです。
 「字が書けるなんてすごい!」と言われる時代はとうに過ぎ去り、「字すらまともに書けないのか」と言われる時代が、今というわけです。

 こういうお話って、字に限ったものではないと思います。
 私が小中学生の頃のパソコンの授業と言えば、オフィスソフトを使う程度でしたが、最近はWebページの制作や、scratchのようなビジュアル言語でのプログラミングもするようになってきています。
 時代の流れと共に、『一般教養』の範囲はどんどん広くなってきているんですよね。

 つい数ヶ月前は、重すぎるランドセル問題を解決すべく、ランドセルをキャリーバッグのように転がせる道具『さんぽセル』を開発した小学生たちが、世の大人から大バッシングを受けるニュースも話題になりました。
 これを元を辿れば、教科書が厚くなったり、学校で使う道具(絵の具、習字セット、タブレットなど)が増えたという問題に辿り着きます。
 それだけ、学ばなければならないことが増えた、つまりはやはり『一般教養』の範囲が広くなったということを意味すると思います。

 私が小学生だった10年前と比べただけでも、求められているレベルが、オフィスソフトの活用からプログラミングに移りつつあります。
 本当に、とてつもない加速の仕方ですよね。


能力の”質”

 それだけの教育を多くの子どもたちに施した結果、能力の高い人がどれくらい増えるだろうか、と思います。

 質の高い教育を、人員やお金をかけて、より早いうちから幅広い人たちに受けさせることは、悪いことではないと思います。
 しかし、教育の質が高くなればなるほど、全体の質が高くなるとは限らないとも思います。むしろ、”できる人”と”できない人”の差が広がり、集団が二分されるだけではないかと考えています。(根拠のある話ではないので、実際どうなるのかは分かりませんけれど。)

 私は工業高校の情報技術科に2年間通っていましたが、その教室がまさにそれでした。
 先生陣はとても優秀で、質の高い教育を提供してくれていましたが、テストの点数分布を見ると、上位と下位に二分されており、真ん中がほとんど居ない状態でした。

 できる人に合わせて授業をすれば、下が置いてかれてしまう。しかし、できない人に合わせて授業をすれば、本来もっと伸びるべき上位の人たちの可能性の芽を潰してしまうことになる。ジレンマですね。
 先生としては、上位の人たちが下位の人たちを刺激して、クラス全体で高め合ってほしかったでしょうが、クラス内の一部はギスギスしていたり、そこまで意識が高く無かったり。あまり良いクラスでは無かったのかもしれませんね。

 今の教育方針のまま、つまりは根本的な教育方針は変えずに、ただ新しいものを取り入れていく、『詰め込み方式』の教育を続けていたら、間違いなくそれと同じことが起こると思います。
 というか、既に起こりつつあると思います。上と下で、真っ二つになっていないというだけで、できる組とできない組に分かれ始めているのではないかなと思います。

 上ばかりが伸びる世界。うーん…。


能力の”価値”

 これからの日本の教育をどうするのかは、偉くて賢い誰かがやってくれると思うので、この辺にしておきましょう。
 私たち庶民が真摯に向き合い、考えなければならないのは、能力の『価値』についてです。

 私と同い年の人たちからすれば、『プログラミング』は一部の人たちができるもの、「できればすごい」の認識になるでしょう。
 私の父母世代からすれば、オフィスソフトを使って、文書やプレゼン資料の作成、表計算処理は、「できればすごい」の認識になります。(ここ数十年で、どこの企業でもパソコンが使われるようになったので、業務の中で覚えていった人は多いでしょうが、就職した時点でできた人はほとんどいなかったと思います。)
 私の祖父母世代にもなれば、パソコンの使い方を知っているだけで「あの人は賢い」と言われていました。これもまた、その世代では「できればすごい」技術の一つ。

 あと10年くらい経って、今の中学生が就職する頃は、Webページくらいは制作できて当たり前、プログラミングも多少できて当たり前、ゲームが作れたらすごいかな、くらいの世界がやってくるのかもしれません。
 今の小中学生は、そういう世界に向けて、プログラミング教育を受けているわけですしね。

 時代と共に、求められる教養が増え、できて当たり前が増えていけば、能力の価値はどんどん下がっていきます。
 もちろん、現役で活動し続ける人たちは、能力をキャッチアップし続けていくでしょうから、時代が進んでも自身の能力を維持し続けていけるかもしれません。
 しかし、誰もがそうではないし、やはり新しい考え方や流行りに敏感な若者の方が、より現代に合った、柔軟な技術や知識を身につけやすいと思います。そうなってしまうと、”昔の人”の価値は、どうしたって下がってしまう。

 昔はすごくても、今では当たり前。
 時代が進めば進むほど、そういうもので溢れていく。


溢れる当たり前、薄くなる幸せ

 人って、褒められたり喜ばれたりして、誰かに認められたと感じる瞬間が、何よりも『幸せ』を感じる瞬間ではないかなと思います。
 私も、褒められるのは好きだし、自分のしたことで誰かが喜んでくれたら嬉しいと感じます。

 しかし、こうして『一般教養』の範囲が広がり、できて『当たり前』が増え過ぎてしまうと、褒められたり喜ばれたりする機会が、より少なくなってしまうような気がしてしまいます。もっと言うと、認められるためのハードルが、どんどん高くなってしまうと思います。
 幼いうちは、本人の能力や成長を加味した上で、大人は評価を下しますが、社会に出てしまえば、中卒も大学院卒も、等しく”社会人”です。Excelが得意でも苦手でも、表を作れと言われれば作らなければいけません。分からないと言えば「そんなことも分からないのか!」と怒られるかもしれないし、早く作っても「それじゃあこっちもお願い」と仕事が増えるだけかもしれない。

 かといって、じゃあ昔は今より褒められる・喜ばれるのが簡単だったか?と問われれば、そうでもないと思いますがね。
 Excelがないぶん、そろばんや電卓を使って、より早く、より正確に計算できる人は重宝されたでしょう。とはいえ今は、そろばんや電卓が早く使えても、あまり重宝される場面はありません。繁栄の影にはいつだって、衰退が潜んでいます。
 ただ、そろばんや電卓は、単純に数を繰り返せば上達するのに対し、Excelはまず、使い方を学ばなければなりません。シートとは何か、関数とは何か、どんな関数があるのか、そういうことを1つ1つ学び、知識として身につけていかなければいけません。身につけた上で、実務での活用方法を思考できなければ、活かすことは難しい。
 単に、質の高い能力を求められるようになった、ということだと思います。

 求められる質が高くなったから、できて当たり前の質も高くなって、できなければ不幸になりやすくて。当たり前にありふれていて、一昔前まで『特別』だったものが『平凡』に成り下がっていく。

 歳をとって、お金が稼げるようになることで、お金の価値が相対的に下がることとよく似ていますね。
 正月でしか見ることのなかった1万円札も、今は毎月十数枚も手に入って、そのほとんどが自分の生きる代償、出費として出ていく。
 何の価値も感じなくなって、何の惜しさもなくなる。当然で仕方のなくて、退屈で、とても苛立つ、不快な現象でしかなくなる。


幸せの忘却

 最後に、私の感情をかき殴って終わりにしましょう。
 というか、今日の記事は、わざわざそのためだけに、どうでも良いことをつらつら書き並べただけとも言えますし。

 私は、幼いなりに絶望したり失望したりの多い人生だったと思います。
 それでも、幼い私なりに、何かに希望を見出すことができていたからこそ、大人になるまで歳を重ねてこれたわけで。

 たくさんの理想があって、それに向けて進路を考えて。
 半ばで挫折しても、今の私にできることを考えて、その時の私なりに必死になったりならなかったりして。
 必死だからといって、それが報われるとも、正しいとも限らないので、その結果も良かったり悪かったり。

 まあ、今の私は、誰がどう見ても、幸せな状態ではないと思います。
 18で就職して、うつ病になって、辞職して、生活保護になって3年、未だに仕事はできる状態ではありません。
 そんな人生を『幸せ』と言えるのならば、そこそこに気が狂っている。

 それでも私は、やはり気が狂っているので、私の人生を『幸せ』だと言えます。

 少なくとも、友人と恋人と兄弟には恵まれました。
 こんな私に、こんなにもたくさん、素敵な巡り合わせがあるというだけで、十分すぎる。

 一方で、親と健康とお金には恵まれませんでした。
 少なくとも今は、そう思っています。そう思う他ない現実。

 こんな状態を『幸せ』と呼んでいるうちは、私はずっと世間的に見て『不幸』な人間のままなのだと思います。価値観というか、認知が歪んでる。
 不幸を不幸だと思うことができなければ、自分にとっての幸せを描くことができません。今の自分の生活に不満がなければ、自分を変える必要がないからです。

 私は本来、少なくとも生活保護からは脱却するために動くべきなのに、心のどこかで、仕事に対する恐怖や自信の無さから、自分の心が平穏ならばそれでいいと、投げやりな気持ちになっている部分があります。
 端的に言うと、幸せになるための道のりが長過ぎて面倒だし、歩き切れる自信がないからどうでもいい。

 何かもう一つ、ありふれた当たり前だったら良かったのに。
 心身が健康とか、仕事ができるとか、親がまともとか、高校卒業できた成功体験があるとか。

 ハンデは努力でかき消していけ。

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