自己肯定感の否定
こんばんは。
ぐんと冷え込んで、ひと月前の暑さがもう既に恋しいです。
夏は冬の寒さが恋しいし、冬は夏の暑さが恋しい。
夏や冬になるといつも、『季節を閉じ込める倉庫』に夏や冬を閉じ込めて、夏には冬を、冬には夏を解放し、室温をいい感じに分配できたらいいのにな、なんて考えてしまいます。倉庫に夏の一部を閉じ込めることで、暑さがちょうどよくなったりしないのかしら、とも。
まあ結局、どの季節も、それぞれ楽しいものや美しいものとの出会いに溢れているので、憎めないし、嫌いにもなれないのですがね。
自己肯定感とは
手っ取り早く、Wikipediaさんから引用してしまいましょう。
なるほど。わかりやすい。
要するに、自分が自分に対して持つ、プラスの感情ということですよね。
自分はすごいとか、自分はできるとか。
自分にはこんな価値があって、自分はこれのために存在していて、こんな自分に意義を感じるんだ、とか。
まあ、ここまで行くと、ただのナルキッソスになってしまいますが。
自己肯定感の最大値
人生一生の中で、一番自己肯定感が高い時期はいつだろう?って考えてみました。私はまだ21歳で、人生百年時代と言われる現代においては1/4にすら到達していませんけれど。
ほぼ確証に近い実体験から、『幼児期』だと思っています。
幼い頃って、世界が狭いんですよ。
生まれた瞬間、お母さん、お父さん、それから自分の、たった3人しかいない世界に降り立ちます。少し時間が経ってやっと、兄弟がいれば兄弟と遊ぶようになるし、祖父母に会うこともあります。時には児童館のような場所で、知らない子と遊んだりします。忙しい家庭なら、保育施設に行くこともあるでしょう。
さらに時間が経ってやっと、自分以外に人がいることに気付きます。自分とお母さんは別の人間で、一心同体ではないことを理解し始めるわけです。
もっと時間をかけて、自分の知らない、出会うことさえもない程にたくさんの他人がいて、家族以外にも社会はたくさんあって、世界は途方もなく広いのに、自分は途方もなく小さいことに気づきます。
そこで初めて、満ちていた自己肯定感が、ほんの少しだけ欠け始めると思うのです。
視野が広がることで自分の矮小さを知り、人と関わることで醜悪さに気付かされ、競うことで無能だと悟る。
アンパンマンにも、プリキュアにも仮面ライダーにも、スーパーヒーローにさえもなれると思っていたのに、憧れたものになぜ焦がれたのかさえ思い出すことができなくなっていきます。
『馬鹿らしい』と、残酷な一言で全て切り捨てることができるようになっていくのが、いわゆる『成長』なのでしょう。何も、間違った生き方・育ち方ではないと思いますよ。
しかし、成長は止まってはくれません。
いつの間にか、自分の全てが恥ずかしくなって、曝け出すことを、或いは自らを知ろうと追求することを恐れるようになります。
知られなければ平和。知らなければ平和。
在り方、価値、存在意義
先ほど、Wikipediaからの引用によると、自己肯定感は『在り方』や『価値』『存在意義』などを肯定できる感情のこと、のような説明をしました。
果たして、自分の『在り方』を分かって、自身の持つ『価値』や、この世に生を受けた理由『存在意義』に向き合って、それらを肯定的に評価し、毎日を生きている人は、どれだけいるでしょうか?というお話です。
進路や就活のような、自分の人生において重要な直面した際、何か”迷い”が生じたり、億劫になるのならば、結局、突き詰めれば『在り方』が曖昧なのではないかなと、私は考えます。
もし自らの『在り方』がある程度明確だったなら、信念に従って迷わず突き進むことができるし、自分が納得できる結果のために戦う気概が湧くものだろうと思います。
そうして自らの『在り方』をとことん突き詰めていれば、自然と自分の持つ『価値』(魅力と言い換えても良いでしょう)や、自分にしかできないこと・自分がやるべきことといった小さな『存在意義』を、日常の中に見つけることができると思います。
そしてそれは、もっと大きな、自分が創った『社会的価値』や、自分の力で手に入れた『社会的意義』につながるものだと思います。
我の自己肯定感、何処やら…
話は一転しますが、私は、自己肯定感が格段に低いなぁと思っています。
低いというよりかは、皆無と言った方が適切だと思います。
なぜかって、そもそもとして、自己肯定感が必要な理由がよく分かっていないからです。
私は現在うつ病で、たくさんの支援者さんにお世話になって暮らしていますが、誰もから一度以上は「自分に厳しいね」と言われたことがあります。
実際、私の考え方は、私にだけ理不尽なものになっています。そういう認識はありますが、認識とは別に自覚としては「これくらい普通でしょ」と思っています。(認識と自覚のややこしさは後でお話ししますので、一旦スルーしてください。)
なぜ自分に厳しいのかって、自分を測りたいからです。
おそらく、自分の良いとこ探しをすることは簡単だと思います。自分を褒めることも簡単でしょう。
しかし、自分を褒めることで得られる自信は、他者から得られる評価と大きく乖離している場合があります。その差を埋めるためには、努力して自分の思い込み通りの能力になるか、自信を失って周囲の評価通りの自己評価になるか、究極的にはこの二択になりますよね。
上げて落とした時が、衝撃は一番大きくなります。花瓶を床に転がしても割れませんが、高いところから落とせば割れる。
それと同じことを自分の心に対してすることになるかもしれないと考えたら、わざわざ自分を褒めたいとは思えなくなります。自分に失望するのにも体力が要りますし、何よりどっと疲れますから。
以前の私はここまで考えた上で決断していたわけではありませんし、実際は『選択』より『挫折』が多かったので、選ば”ざるを得なかった”というお話。
選択できないという挫折は、何よりも自分を失望させます。ただでさえ失望していた自分を、さらに失望させました。
これでめでたく自己肯定感の泉は干上がったのですが、これが運の良いことに、私と相性抜群だったようです。
自分を肯定するための材料は何一つ揃っていないけれど、自分を否定する材料と、それらを吟味する時間だけはたくさん持っていました。とことん”何故”を追求して、自分の身に一体何が起こってそうなったのかに向き合い、様々な切り口で自分にできたことを探り、とにかく考え続けていたような気がします。
正確にはなんとも。過去のnoteを遡ったら、何か見えるものがあるかもしれませんけれども。
結果、『自己否定』を使ってあらゆる角度から自分を蹴落とした上で、それらを現実的な尺度から精査し直し、自らを測り直す。そうすることで、おそらくそこそこ正確に自身を『客観視』する力に繋がりました。
まあこれも、言葉の上では一応そうかいて見ましたが、自覚としては自己満足に浸ってるバカの妄言くらいに思っています。何の参考にもならない、信用するに値しないものだ、と。
自己肯定感って必要?
前の項目の最初の疑問が、答え終わっていません。
自己肯定感が必要な理由がよく分かっていないってやつです。
逆に、自己肯定感が何故必要なのかと考えたら、自分が自分で居られなくなるから、と考えるのが自然なのかなぁと思っています。
でも、そんなこと大した問題ではないし、そもそも自己肯定感がなければ存在できない自分なんてものがおかしいと思うんですよね、私は。
私の場合、社会から向けられる評価と、自分が自分に与える評価、どちらが高いかと言われたら、今のところは社会から向けられる評価の方が高いことが多いです。(もちろん逆の場合もあります。)
そのため、自分に自己肯定感がなくても、社会の方から勝手に満たしてくれるというか。それだけ、自分が自分に与える評価が酷すぎるというのもありますがね。
また先ほど、『認識』と『自覚』を別物としてお話しましたが、これもまた、ある意味では自らを守るためのセーフティーとして上手く機能しているのだろうと思っています。
私の『自覚』としては、常にマイナスでしかありません。酷評という言葉がマシに思えるくらい、そこまで責めなくても…ってレベルで自分を責めています。毎日何かをするたびに思っていることとして、「この程度のこともできない自分に、私は用なんてない」というのがあります。できなければ「用はないから消えろ」と自分を貶めるし、できれば「できて当然でしょう?喜ぶなんて馬鹿だ」と嬉しさを否定します。
それとは別に『認識』というものが存在しています。私が「この程度のこともできない自分に…」と思うのに対し、その感情自体は否定も肯定もしません。その代わり、できなかった場合は、『本当にできるべき事柄だったのか』を精査した上で、できるべきならできなかった原因を考えるし、できなくても良いと判断したら何もしないか、できるようになるための計画を考えます。初めからできた場合は何もしません。
この二つが上手に切り離されてくれているおかげで、『自覚』にボコボコにされたとしても、『認識』側で与えられる結果によって、何をすべきかが明確になります。気分が落ちはしても、道筋があるので進むことができるわけです。
何か自分の尊厳が傷付くような出来事があったとして。
自己肯定感が高い人って、全てをオブラートに包んで外に投げ捨てているようなものなのでしょうかね。その中身が何かに関係なく、傷付いた・不快に感じたという指標で、精査するまでもなく、忘れたり投げ出したり。
これで、周りに対して攻撃的になってしまわないのならば、いわゆる『世渡り上手』ってやつですよね。何事も飄々とこなしていく感じの。憧れるなぁ。
自己肯定感が低い且つ、自己肯定感を欲している人は、「どうして分かってもらえないんだ!」と腹を立てたり泣いたり、癇癪を起こしてしまう。そこまで行かずとも、少し周りに対して攻撃的になってしまうか、極端に沈んで一時的に孤立してしまうか。
要するに、かまって欲しがりの面倒な人みたいな。怒れば分かってくれる、泣けば助けてくれる、嫌な顔すれば気を遣ってくれる、孤立すれば優しくしてくれる、そういう寂しい人たち。
私は、そもそもとして傷付けられて当然だと思っているし、大抵の傷付けられ方というか、否定のされ方は、すでに自分が自分にしたことのあるものなので、古傷を抉る程度の痛みにしかなりません。これはこれでどうかと思いますけれども。
自己肯定感を否定する
私は、飄々とした人間にはなれません。素質からして違う。
でも、できることならば、自己肯定感が低いからって、自己肯定感を手に入れるために虚しくなりたくはない。というか、そんなことになったら元も子もないですよね。
たかが、自分を肯定する感情です。それを持つことで、むしろ現実の評価と乖離するというリスクを負うことになる。
だったら、自己肯定感は諦めて、自分を正しく測る力を身につけたほうが、ずっと生きやすいし、何より自分のためになると、私は思います。
まずは、自分の『在り方』と向き合うところから。
まずは、自分の『魅力』に気付くことから。
まずは、自分のやるべきことをやるところから。
まずは、自分にしかできないことを見つけるところから。
どれでも好きなものを選んでください。
どれもお互いにつながり合っているので、どれかに向き合っていれば、自然と他の3つにも向き合う日が来ると思いますよ。
少なくとも、変わろうと思わなければ変わりません。立ち向かおうと思わなければ、敵の姿すら目にすることはない。
自己肯定感の低さに悩んでいるのならいっそ、『自己肯定感が低い自分』という、ありのままの姿を受け入れて、そんな自分にこそできることは何だろう?と考えてみてください。そっちの方がずっと、無理せず自分らしく居られると思います。
世界で、唯一の主人公は自分ですから、思い思いの物語を紡いでください。
よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。