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『子ども』と『学び』

こんばんは。

先日、学習支援ボランティアに参加してきました。
今日は、そこで感じたことをさっくりと書いていこうと思います。


学習ボランティアって?

私は、今まで2つの学習支援ボランティアに参加したことがあります。

『学習支援』というくらいですから、子どもたちの学びのお手伝いをするのが主な役割です。
宿題やテスト直しをしたり、支援を行なってる事業団体さんの用意したプリントをやったりみたいな。

それだけ聞くと塾みたいですけれども、塾のように進んだ内容や発展的なことはあまりやりません。
というのも、『授業だけではついていけない子』とか『家庭で学習環境が整いにくい子』などを主な対象にしていることが多いからです。

授業に遅れないように補うとか、授業の遅れを取り戻すとか。
学ぶ内容は、本当に基本的な部分が多いです。

支援事業さんがどういう意向で運営しているかにもよりますが、例えば『一人親家庭』とか『生活保護』のような家庭事情を持つ子どもだけを対象としていたりもします。
これは、金銭的に塾に通わせられないとか、時間的・肉体的に親が子の面倒を細やかに見てあげることができないとか、そういう格差を埋めることが目的だと思います。

それから、私が行ったことのあるところは、『子ども食堂』的な役割も持っていました。

みんなで食事をする或いは、食べ物を配る、みたいな。

余裕のない親御さんだと、栄養バランスの偏りがあったり、そもそも食事を抜きがちになってしまったり。
そういう部分を少しでも手助けしよう、みたいな意味合いがあるのだと思います。

こういう事業団体って、色々なところが、色々な形であるみたいです。
どうやって成り立ってるのか詳しいことは分かりませんけれど、一つの形として『市町村から委託されている』というものがあるようです。

ですから、利用料は無料です。
まあそもそもが、格差を埋めよう!みたいなわけですしね。

もっと認知度が上がって、運営団体も利用者も、それを支える人も、増えたらいいな、なんて思います。


『学び』へのモチベーション

はい、本題に入っていくとしましょう。
私を含め、私の周りって、比較的『学びの楽しさを知ってる』って人が多いような気がします。

特に、プログラミングとか数学とかの界隈の人たちって、勉強用のチャットグループに所属していたり、数学とか科学のオリンピックに参加したことがあったり、そもそも『学びに対するモチベーション』が高い上、やってる内容がめっちゃ高度なんですよね。

肩身が狭い。

まあそれは、かなり特殊な例なのだろうと思っていますけれども。

一番大きな違いは「こんなの、大人になって役に立たん」みたいな切り捨て方をしてしまう人が少ないことかなと思います。

これは私の独断と偏見ですが、成績が低い人や授業に遅れがちな人であればあるほど、そういうことを言う人が多いような気がします。

自分が勉強をしない言い訳、やる気を出さない言い訳、成績が低いことに対する弁解に、「大人になって役に立たないから」ってピッタリなんですよね。
加えて、もし、親や兄姉といった身近な年上が、自分の宿題を「分からない」とか「学校の先生に聞いて」とか言っていると、「できなくても大丈夫なんだ」って気持ちになってしまうと思うのです。

モチベーションどころか、興味・関心すら無くしてしまったり。
学びに価値を感じなくなってしまったり。

そうなってしまうとどうしても、『学ぶ』ことに対し否定的になって、逃げる道を選んでしまう。

その結果、勉強ができなくなってしまうのって、とても勿体無いことだなと思います。


選べること、選べないこと

本当に役立つかどうかはさておき、『できる』か『できない』かなら、『できる』に越したことはありません。

できることで、選べる選択肢は確実に広がります。

勉強のできる人は、本物の『選択の余地のない人生』を知らないのだと思います。
逆に、勉強のできない人は、本物の『選択肢のある人生』を知らないのだと思います。

私は、中高の6年間で、どちらの立場も体験したつもりになっています。
(つもり、重要。)

高校受験の際、志望校合格自体はほとんど苦労しませんでしたし、市内にある大体の高校が視野に入れられる程度の成績ではありました。
私の中学時代は、受験よりも病気の方が大変な時期でしたからね…。

不登校によって大学進学の道が完全に絶たれてしまい、就職しか道がありませんでした。
まあこれは私の能力的にというよりかは、工業高校に2年いたため一般受験が厳しかったことや、金銭的に私学は無理ということの方が大きかったかもしれませんが、形はどうであれ選択肢がないという事実に変わりはありません。(こういう形でしたから、責任転嫁も言い訳もしやすかったですし、奨学金借りるとか何かしら選択肢あったでしょ!と言われればそうかもしれません。)


どうにかできるべき

ここで一度、話の方向性みたいなものを示しておきましょう。

私はこの記事で、才能の有無とか、家庭の事情とか、そういう話をしたいのではありません。
それから、「成績のいい人は努力をしてる」とか「成績の悪い人は怠け者だ」みたいなことを言いたいわけでもありません。

誰にでも平等に、『学び』について機会があるべきだと言いたいのです。

苦手な部分を補える機会。
遅れを取り戻せる機会。
『学び』に対する意識が変わる機会。
学びたいことを学べる機会。
学びたいことに出会える機会。

そういう巡り合わせが、本人や本人を取り巻く事情とは関係なく、起こるべきだと言いたいのです。


『学習支援』は何処まで担える?

深くボランティアをしていない私が言うのも生意気ですけれども、私は思ったことを書きますよ。

いくらでも刺してください。
コメント大歓迎!

私は塾に通ったことはありませんが!
(偏見でものを言いますよ、という前置きです。)

塾というものは、サービス業です。
お金を払って、より良い学びを提供してもらうサービスです。

それに対し、学習支援はボランティアさんで成り立っています。
塾ほどの充実度は、どうしたってないでしょう。

苦手を補うことや、多少の遅れを取り戻すことくらいはできるかもしれませんが、根本的な『学び』に対する意識を変えることは難しいと思います。

他分野・他教科との繋がりが分かって楽しいとか。
例えば数学だったら、『美しさ』的なものに気づかせて上げることとか。

そういうのって、どうしても難しい。

そもそも、誰もがそういうものを知って『学び』を楽しんでいるわけではないでしょうし。
そもそも、すでに『苦手』とか『嫌い』って意識のある子どもにそういうことを教えるのは至難の業でしょうし。

結局、『学び』に対する機会を、誰もに平等にって、綺麗事になってしまうんですよね。


『楽しさを伝える』vs『成績を上げる』

これは、色々な枠を超えて論争が存在しそうな話題ですけれども。

私は『楽しさを伝える』が、一番大切だと思っています。

学びに限らず、スポーツでも、音楽でも、なんでも。
楽しさが分からなければ、伸びるものも伸びないと思っています。

でも、楽しさを見つけることよりも、ただただ成績を上げることの方が、単純で簡単な上に結果がついてきやすいのです。

覚えるだけとか、数をこなすだけとか。
まあ、それでどうにかなるには限界があるでしょうけれど。

そんなだから、『学び』についての指標って、『成績』に固執しているんですよね。

それの何が問題かって、ただただテストを乗り越えるために学んでも、その先がないことです。

自分が何を学びたいのかが分からなくて、結果的に何をやりたいのかが見つけられなくなってしまうというか。

つまりは、動機は不純なくらいが丁度良いんです。

私の友達に、声優になりたくて方言の授業をめっちゃ真面目に受けてた子とか、推しが作りたくて造形を専攻した子とかがいました。

多分、本人からしたら黒歴史です。←

でも、そういうふうに、独自の楽しさだとか、必要性だとか、そういう期待を持って学んだ方が、絶対に意味のある学びになると思うのです。


『学び』という原石、『子ども』という原石

雑になってしまいましたがまとめ。

そうですね、全体として。
子どもの学びをお手伝いするって、計画を持って、継続的に行うべきものですよね。(唐突)

その個を知らなければ、楽しさを伝える術が分からないわけですし。
苦手な勉強が、たった数時間、たった数日でどうにかなるわけがないですし。

『学び』に対する意識を変えてあげようと思えば、尚更。
得手不得手だけでなく、信頼関係も必要になってくるでしょう。

ただやっぱり、『学び』は生涯付き纏ってくるものですから、どうせなら、何か一つでもいいから、楽しさを知って好きになって欲しい。

子どもが『学び』の原石を磨き、学びが『子ども』という原石を磨き。

いつか、そのお手伝いができる人間になりたいです。

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