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取るに足らない

 よく、いるかどうかわからない人や、いてもいなくても同じような人のことなんかを、『空気』と呼びますけれど。空気だって、なくては人が死ぬんですよね。バリバリに活躍してくれています。
 じゃあ、空気中に含まれる『窒素』とかなら、別に呼吸に必要な成分ではないし良くね?とも思ったのですが、窒素が大部分を占めてくれているおかげで、濃すぎる酸素を吸わずに済んでいるんですよね。マジで影の薄そうな窒素でさえ、かなりの活躍をしてくれていました。

 そう考えてみると、世の中に本当に何の活躍もしていないものってほぼほぼなくて、何にだって一応意味や価値があるものなのかなぁ、なんて。

自分は何もできない

 私は、自分の行動で、誰かが喜ぶとか悲しむとか、そういうふうに思うことが難しいです。
 これは別に育った環境どうこうではなくて、なんかある瞬間にポツっと思ったことだったように思います。

 極端な話、私が家でテレビを見ていたとして。そこで、貧困に苦しむ地域の子どもが出てきたとして。
 私はその子に対して、何かできるわけではありませんよね。その子の笑顔ひとつ作ってあげられないのが、自分なわけです。

 まあこれは、誰がどう考えても「そりゃそうだろ、だってテレビの向こうじゃん」と思う、下手なたとえ話ではありますが。
 じゃあ、毎日学校や職場で会う友人を、いつどんな時も確実に笑わせることのできる一発芸でも持ってますか?と言われたら、流石にどんな一発芸でも、”どんな時も”と”確実に”の条件を満たすのは難しいと思います。どうしたって気分が持ち上がらない、笑いたく無い時は、誰だって笑えませんからね。

 そりゃ、普段はバカをして笑い合える仲かもしれませんが、それって自分だけの力ではありません。相手が自分を好いて慕ってくれる気持ちがあるからこそ、それが成立しています。
 だから、自分だけの力によって相手を変えることができるって、ほぼほぼあり得ない。どこかしらで必ず、誰かの力を知らず知らずのうちに借りているはず。

 つまり何が言いたいかって、結局、自分の力で何一つできない無能だよねってお話です。
 少しずつみんなの力が集まって、誰かの笑顔に繋がっています。

期待の話

 自分が誰かに何かをしてあげる時、その動機は、大きく二つに分かれると思います。

  1. 相手に見返りを求めている。

  2. 自分がやりたくてやる。

 何にせよ、究極的に、『相手のため』という動機はあり得ないと思っています。『相手のため』という目的で奉仕をしても、何のリターンも無いからです。最終的に、「どうして〜なんだ!」という逆ギレに辿り着いて終わり。

 ちなみに、見返りが欲しければ、行動より先に、相手との間に「○○をしてあげます。その代わりに××をください。」と、あらかじめ約束をする必要がありますね。
 お風呂掃除をするからお小遣いをください、みたいなやつ。仕事をするから給料ください、Youtubeにお金を払うので広告を消してください、なんかもそうですね。どれもこれもリスクとリターン。
 家族の役割分担で、母がご飯作り、子どもはトイレとお風呂掃除、父はゴミ出し担当みたいなのも、全員でバランスを取り合っている≒見返りを求め合っている形の一つだと思います。とても良い。

 もう一つの『自分がやりたくてやる』場合、これはかなり特殊な状況だと思います。なぜなら、自分の損得を度外視した行動だからです。

 『相手のため』と何が違うのかというと、『期待』があるかないかだと私は考えています。
 『相手のため』の場合、なんだかんだどこかで、あるいは未来で、「○○してくれないかな」という期待が入り混じります。何かを積極的に求めているわけではないけれど、これだけしてあげているんだから、こうしてくれても良くない?という気持ちが芽生えるわけです。
 自分が”やってあげているんだ”という意識があるから、どうしたってそういう気持ちに繋がってしまう。

 対して、『自分がやりたくてやる』は、相手が何を想おうと関係がなくて、自分がそれをやっていて楽しいからやる、それが好きだからやる、それ以上の感情はありません。
 間接的に人のためになっていたとしても、別にそこに興味は無いんですよね。はなからそれを期待しているわけでは無いので、副作用的に誰かのためになっていて、「ありがとう」と言われたら、それはそれでとても嬉しい、みたいな感じ。
 まあ、逆を言えば、楽しくなくなったら辞めるんですけどね。それでも続ける必要があれば、見返りを求めて、それをモチベーションにすればいいだけの話。

 私がこうして続けているnoteも、実はそうだったりします。
 いいねがつくとか、閲覧数が伸びるとか、ほとんど興味がなくて、実際、ダッシュボードでそういうのを確認することはほとんどありません。
 ただ自分がやっていて楽しいからやっています。もちろん、時々スランプが来たりして、しんどくなることもあるのですが、それもまた続けることの面白さだと思って、なんだかんだ楽しんでいます。

 いいねやコメントをもらえることを期待していないから、来たときはいつも、想定外のハッピーにニコニコしています。
 あまりにもポジティブすぎてやばいな私。

誰にも求められていない

 『人』という文字は、人と人が支え合っている形から生まれたなんてよく言いますが。私はどう考えても、人が大股で歩いてる姿にしか見えないんですよね。
 だからどちらかと言われたら、人がギリギリの角度でなんとか独り立ちしている姿から『人』という文字ができたと言われた方が、むしろ納得の行く気がします。

 人に限らず、生き物って、基本的に自立しているべきだと思うんです。
 自分で住処を見つけて、自分でご飯を手に入れて、暑さも寒さも雨も風も異常気象も、自分の力で乗り切るしかない。
 もちろん、鳥の雛やカンガルーの子どものように、手厚い加護を受けて育つ生き物もいますが、鳥の雛はある日突然巣立ちを強要されますし、カンガルーの子どもも親の身に危険が迫れば捨てられますからね。
 結局、自立できなければ死ぬ定めにあるのが生き物だと思います。

 そういうの、狩猟も生存競争も無くなった現代人からしてみれば、ショッキングなことこの上ないのですが。自然界では今日もどこかで、色々な理由で生き物が死んでいます。
 それくらい当たり前なことなのに、忘れがち。

 ふと思うんです。親に捨てられたカンガルーの子や、巣立ちに失敗した雛鳥は、一体何のために生まれてきたんだろう?って。
 私は、そこに理由なんてないと思います。強いて言えば、子孫を残すために生まれてきて、不運にもそれが達成できずに死んだ、それだけだと思います。

 人間ってことあるごとに、自分の存在意義を見出したがりますよね。生きている理由が欲しいとか、自分のことを望まれたいとか、愛されたいとか、そういうやつ。
 そんなことを考えられるまでに幸せが飽和しきっているのって、どこか恐ろしいです。でもまあ、そんなくだらないことに悩める自分って、生き物としてなんて幸せなんだろうとも思えます。

 突き詰めれば、人間の子どもなんて親のエゴでしかありませんからね。
 誰かに何かの感情を向けられたいと、思うだけ無駄です。はなから何かを求められて生まれてきたわけではないのだから。

取るに足りる人

 では、感情を向けられたがりのかまってちゃんは、どうすれば人から感情を集められるかって、誰かに望まれる前に、自分が誰かに望む前に、まず初めに自分が誰かに何かを与えることだと思います。

 恩の前売り、というと少し意地汚く感じるかもしれませんが。
 何かを無償でくれる人には、何となく人が集まるイメージがあります。学校において、人を笑わせてくれる人とか、リーダーシップのある人とかがそうですね。進んでムードメーカーになったり、進んで面倒な役柄を引き受けたりする人は、みんなが「こいつ頼れるぞ」と思って、人が集まるわけです。

 そういう人たちは別に、笑ってくれることや感謝されることを見返りとしてやっているわけではないような気がするんですよね。もちろん、見返りが欲しくてやっている人もいるでしょうが。
 最終的に頼られる人たちは大抵、自分がその役に向いていることを何となく察してやっているような気がします。或いは、誰かに任せるより、自分がやっている方が安心するのかもしれません。

 何にせよ、自分がそうしたいからという理由で行動し、恩の前売りを続けることで、人の感情が自分に向きます。
 信じられたり頼られたり任せられたり。そういう感情って、向けられると気持ちが良いですよね。

 すごくざっくりまとめると、あれが欲しいこれをくださいの前に、自分が楽しくできることを自分のために続ける、を実践することをお勧めします、って感じ。


 まあ、これをかいている私も取るに足りる人ではないので、実は微塵も参考にならない覚書なのかもしれませんが。
 少なくとも私はこんなふうに考えているので、積極的に誰かに何かを望もうとは思いません。望んで、返ってこなかったときに虚しいだけですしね。

 むしろ、何かが欲しいときは、相手をどうしたらその気にさせられるかを考える派です。
 漠然と「遊んでくれ」ではなく、具体的に「スプラトゥーン配信するけど来る?ナワバリとサーモンランどっちがいい?」みたいな感じ。
 そのほうが、相手も答えやすいですしね。やりたい・いやだ、ナワバリ・サモラン、とかね。

 選択肢の外へ行きたければ、その時はそう伝えてくれればいいですし。そういう他愛のない会話のできる関係構築も大切ですが、その話はまた別の機会があれば。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。