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私と言葉

こんにちは。

今日は若干、曇りましたね。
梅雨は明けたということですし、晴れが続いていたものですから、今日もいつも通り太陽に会えると思っていたのですけれど。

少し、残念。


年相応の語彙力の話

だいぶ昔に読んだ記事なのか、本なのか、よく覚えていませんけれど。

それに触発されて、私自身の考えや思いを言葉にして、『年相応の語彙力』についてのnoteを書いたことがあったと思います。

まあ、知らない人もいると思いますから、ここでもう一度、今の私の考えや思いを、今の私の持つ言葉で、簡単におさらいするとしましょう。

年相応の語彙力は、言葉の意味そのままに、その年齢で持っているべき言葉の多彩さのことになります。

この言葉自体にはそれ以上の意味はなく、言ってしまえば誰にだって言葉の意味自体はなんとなく分かるようなものです。

しかしこの言葉は、意味が分かったからといって実態が分かるものではありません。

指標が曖昧という部分が、この言葉の実態を曖昧にしているのです。

では、年相応の語彙力における『指標』とは一体何なのか。
そういう話になるわけです。

幼い子どもがケンカをすると、泣いたり、黙ったり、叩いたり、蹴ったり。全身を使って、自分の感情を伝えようとします。

これは、自分の感情を表す言葉を知らないがために、そうするしかないからそうしているのだと、私は思います。

成長するに従い、言葉を覚え、自分の感情を『動作』ではなく『言葉』で表現する方法を知ります。

自分の感情を表現できる程度の語彙力。

これが、私の考える『年相応の語彙力』です。


年相応の語彙力を持ってる人は

そう言ってはみたものの、実際、年相応の語彙力を持っていると言えるような人なんて、ほとんどいないだろうと思います。

いや、それは少し違いますね。

結果的にそういうことになってしまうとしても、実際はそういうわけではない。

例え年相応の語彙力を持っていたとしても、自分の感情をなあなあにして誤魔化してしまえば、自分の感情を言葉で表現することはできない。

言葉を持っていても、感情と結びつくことがない。

それは、表面だけを見てしまえば、自分の感情を表現できないということですから、年相応の語彙力がないとも言えてしまいます。

けれども実際は、「語彙力がない」のではなく、「感情が分からない」というだけなのです。

こうして考えてみると、『年相応の語彙力』は、自分の感情が分かることと、それを表すために十分な語彙が備わっていることがセットでなくてはいけない、ということになってしまいます。

語彙自体は、十分に備わっている人が多いのでしょう。


私、「結」という字が、たくさんある漢字の中で最も好きなのです。

「糸」と「吉」という組み合わせを見ても好きですし、その二つを個別に見ても好きですし、「むすぶ」や「ゆう」という読みを見ても好きです。

まあそれとは別に、私の名前に「結」という字が入っているというのも少なからず影響しているとは思います。

世の中には『名前負け』なんて言葉がありますけれどもね。
名前というものは、ものの在り方を如実に表すものだと思っています。

ものが名前に影響を与え、その名に対して何らかの印象を植え付けることがあるから、『名前負け』が起こるのかもしれませんけれど。

そんなことを起こせる程に、ものが名前に影響を与えることがあるのなら、その逆で名前がものに影響を与えることだってあったっておかしくないでしょう。

ずっと昔にテレビを見ていた時、「”チーザ”とは何か」と質問され、前提知識も何もなく、思いついたものを答えるというものがありました。

おそらく、それ以外にも何問か出題されていたとは思いますが、それに対する答えが「チーズ入り餃子」だったことだけが忘れられず、今でもよく覚えています。

確かに、”チーザ”という言葉から想像できる。

まあその”チーザ”の正体は、グリコが売り出しているお菓子のことだったのですけれども。

ちなみに私は食べたことがありません。
濃いチーズは、匂いだけで気持ち悪くなってしまうことが多くて、苦手なもので。

ここで何が言いたいかって、名前一つをとっても、人によって捉え方は様々だということです。


言葉と感情を結ぶ

閑話休題。
先ほどの話題についてはいずれ、また気が向いた時に、深くお話しすることとしましょう。

先述したとおり私の名前には、「結」という時が使われています。

それは私というものに対して、とても大きな意味だったり、価値観だったり、呪いとも運命ともいえる思い込みを与えてくれています。

「結」という字には、私の在り方の一部が、少なからず含まれているというか、私の在り方の一部が「結」という字であるというか。

自分の眼で見ることのできる世界における「結びつき」というものを、たった一つでも見逃したくないという気持ちが、とても強いのです。

人と人、人ともの、思いと想い、それから言葉と感情。

私は、ここまでの人生、19年と6ヶ月程でしょうか。

現実から逃げたことや、その場から逃げたことは、何度もあります。
今だって、逃げ続けている自覚がある。

一寸先でさえも真っ暗な現実や、目を開いていられない程に苦しい場所では、私の眼は何かを捉えることができなかったから?
いいえ、単に私が私でいられなかったから、それだけです。

けれども、言葉から逃げたことや、感情から逃げたことは、きっと一度たりともないのです。

どちらも、逃げ切れるようなものではないと言ってしまえばそれまでですけれども。

私の持つ言葉は、決して豊かでも鮮やかでも美しくもない。
それでも、私が、私の描きたいものを、私の持つ限られた言葉で描くことから逃げたことは、きっとありません。

逆に、誰かの言葉で個性的に、けれども精一杯に描かれたものを、分からないと放棄したことも、きっとありません。

私の持つ感情は、私の持つ言葉と比べたら、圧倒的に鮮やかでありながらも、貧しく、儚いものです。

こちらは意識的に、切り離そうとしたことも、逃げたことも、あります。
けれども、逃げ切れるようなものではないことは、初めから私が一番よく分かっていたことでした。

逃げたけれど、逃げきれなかった。逃げられなかった。
結局私は、感情と向き合うしかなかったのです。

そこで私を救ってくれたのは、間違いなく、私の持つ言葉でした。

感情が言葉と結びつけば、いくらかラクになる。

正体が分かる。
書くことができて、伝えることができて、整頓することができる。

そう分かってしまえば、逃げる必要はないのです。

言葉と感情を、私が結ぶ。

こういう生き方や価値観を持つようになったのは、もしかしたら単なる偶然なのかもしれませんけれど。

結びつきを信じるのならば、偶然は初めから必然だったように感じます。


ふりだしに戻って

随分と無駄話ばかりになってしまいました。

今日は確か、こういうことを書こうと思っていたのわけではなかった気がするのですけれども。

そうそう、言葉というものは、形も重みもあるのに、実態はないんですよね。

私はそれが、不思議でならないのです。
形も重みもあれば、実態だってありそうなものなのに。

しかしまあ、ここでいう形は、二次元の、つまりは平面的なものですし。
ここでいう重みは、人から発せられた際の思いですし。

触れるとか、測れるとか、そういうものではないのだから、実態がないことだって不思議ではないのかもしれません。

けれども私は、形も重みもある言葉に対して、現実的には実態がなくとも、実態のような何かを感じていることは確かなのだと思います。

色があるとか、柔らかいとか、硬いとか、刺さるとか。
皆さんだって、そういうふうに感じることがあるでしょう?

だから言葉というものは、決して、難しいものでも不確かなものでもなくて。
分かりやすいもので、身近なもので、はっきりとしたもの・鮮明なものだと思うのです。


私と言葉

最初に書きたかったことが何だったのか、もはや思い出すこともできませんけれど。

これはこれで、書いていて面白い記事でした。
読んでいて面白いかは、分かりませんけれど。

そういえば、私は、『年相応の語彙力』というものを持っていると、言えるのでしょうかね。

確かに、自分の言葉と感情を結びつけてあげようという努力は、いつからかは置いておいて、少なくとも今は、いつだってしています。

とはいえ、一人で突き詰めるにはどうしたって限界がありますし、言葉が万能というわけでもありませんから、そういう意味でも限界があるのだろうと思います。

そう考えると、『年相応の語彙力』なんてものは、初めから持つことが叶わないもので、理想に据えるくらいがちょうど良いものなのかもしれませんね。

結局は、自分が困っているかどうか、ということになってしまうのかもしれない、とも思います。


こんなに長々と書いておいて、このオチはひどいかもしれませんけれど。

私は、言葉が大好きですよ。
だって、これだけ長々と、言葉を連ねることができてしまうのですから。
だって、言葉と感情との結びつきを、美しいと感じていますから。

ただただ、これだけが書ければ、この記事はそれで良かったのかもしれません。

本当に、回りくどいことを。
まるで私の人生のよう。紆余曲折し過ぎです。

長々と読んでくださった方は、ありがとう。
途中で読むことをやめてしまった方にも、ありがとう。

どちらにせよ、それがこの記事とあなたの結びつきだったということでしょう。

今日はこのへんで。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。