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私は今、幸せです

こんにちは。

今日は通院日でした。
ここ2回ほど、連休を避けるためにと、通院が3週間空いていました。

でも、何だか、それは自分にとって、よくないことだったように感じます。
予定が少ない生活というものは、縛りが少ないということですから、過ごしやすくはあるのでしょうけれど。

生きていくのって難しいですね。


生きている実感

私は最近、生きているという心地がします。

逆を言えば、今までは生きているという心地がしていなかったということです。

息を吸っても苦しいだとか、起きていても夢心地だとか、楽しいことが苦しいだとか、苦しいことが苦しいだとか。

いつ、どこで、どんな状態にあっても、苦しくて苦しくて仕方がありませんでした。

そして、その苦しさが、私にとっての日常で、平常で、正常になっていたのだと思います。

だから、もう、一周回ってというか、呆れ果ててというか、疲れ果ててというか、私は一生苦しむしかないんだって思っていました。

苦しまないように生きることを諦めていましたし、私にとって苦しくなくて生きやすい人生なんて存在しないとも思っていました。

そう思っていたのに、今の私は、生きていると実感しながら生きています。

少なくとも前よりは、生きやすく生きていると、自信を持って言えます。

あの時と今とで変わったことは、自分の幸せを許容できるようになったということでしょうか。


幸せを許せない

自分が幸せになることを許せないって、分かりますか?

自分の幸せが一番望めなくて、自分の幸せが一番憎くて、自分は幸せになるべき人間ではないと思っている。

私はずっと、自分が幸せになることから逃げていたし、自分が幸せだと思うことを拒絶していたし、不幸でいることの方が幸せでいることよりもラクで、心地が良いと感じていました。

自分に厳しいとか、我慢強いとか、いわゆる『ストイック』というわけではなくて。

そんな、綺麗な感情ではなくて。

ただただ、自分から幸せを遠ざけていただけなのです。

自分の力で生きていけていないからとか、簡単なことに挫折してしまったからだとか、理由はいろいろあったと思います。

私が幸せになる前に、今の自分を生かしてくれていることに対しての償いをしなければいけないと思っていました。

私が今の境遇のまま幸せを感じることは、ただのズルで、わがままで、横暴なことだと思っていました。

だから、何かを買っても、いくら遊んでも、美味しいものを食べても、全く満たされた感じがしませんでした。

むしろ、欲しいものが手に入るごとに、遊ぶごとに、美味しいものを食べるごとに、それらに対して幸せを感じることのできない自分に絶望していましたし、それこそわがままで横暴だと思ってもいました。

そういう、満たされないという気持ちで満たされて、どんどん心が乾いていって。

苦しいとか悲しいとか寂しいとか辛いとか、負の感情に負担を感じなくなるくらいには、私の心は乾き切っていたように思います。

自分のことだったはずなのに、とても想像ができません。

そんな状態で、よく生きていたなと思いますし、よく壊れ切ってしまわなかったなとも思います。


幸せを許容しよう

幸せでもいいやって思えるようになったのは、彼女の影響が一番大きいと思います。

彼女は、私とは違って、ちゃんと自分の力で生きていくことのできる人です。
可愛い服を着ることも、お化粧をすることも、何かを買うことも、美味しいものを食べることも、遊ぶことも、普通にしていました。

私は、彼女のことが大好きですが、同じ場所には立てないと思っていました。

現実的に、彼女ほどにお金がないとか体力がないとか、そういう意味もありましたけれど、どちらかというと「立てない」というより「立ってはいけない」という思い込みというか、自分への束縛の方が強かったかもしれません。

でも、彼女は、私と一緒に着飾りたいとか、出掛けたいとか、遊びたいとか、そういうふうに思ってくれていたようなのです。

結果的に私は、根負けしたとも言えるのかもしれませんけれど。

彼女が私と共有しようと思った幸せって、どれも特別なものではなくて、ありふれたものなのかなって考えてみたのです。

可愛い服を着ることも、お化粧をすることも、欲しいものを買うことも、美味しいものを食べることも、
その程度なら誰だって持っていていい、むしろ持っているべきの、当然の幸せなのかなって。

初めてそう思えるようになってみると、今まで何をしても乾き切っていた心が、何をしても満たされるようになった気がします。

欲しいものが手に入れば嬉しい。
美味しいものを食べれば嬉しい。
服を着て、お化粧をして出かければ楽しい。
誰かと遊んだり話したりすれば楽しい。

こうして書いてみれば、そんなこと、当然なんですよね。

むしろ、そういうことに対してそういうふうに思えなかった今までの方が、よっぽど異常だったと思います。


幸せでなくちゃ、何もできない

私は今まで、努力をしなくちゃ幸せになってはいけないと思っていました。

もっというと、努力をしていない奴が幸せになることは許されないことだとか、幸せになるのは二の次だとか、そういうふうに思っていました。

でも、それは違うのかもしれません。

あって当然の幸せは、どんな境遇の人にもあって当然なのかもしれない。
まず幸せにならなくちゃ、努力をすることはできないのかもしれない。

私の祖母はよく、「幸せになりなさい」と、私や私の弟たち、私のお母さんにだって言ってきます。

私はそれに対して、ずっと、「じゃあまず仕事をしなくちゃ、幸せにはなれないな」って思っていました。

幸せになるために、仕事をしよう。
仕事をするために、病気をどうにかしよう。
病気をどうにかするために、頑張ろう、努力しよう。

そんなこと、できるわけがなかったのです。

まず、幸せにならなくちゃいけなかった。
心が乾き切ったままでは、何も頑張れるわけがなかった。
幸せを拒絶している人間が、病気を直せるわけがなかった。

人間の原動力は幸せ、だなんて、そこまで大きなことは言いませんけれど。
人間が何かをするには、ひとまず、あって当然の幸せくらいは手にしなければいけないだろうとは思います。


心が向くまま

私はきっと、長い間、幸せではなかったのだろうと思います。

最初に書いた通り、自分の幸せが一番望めなくて、自分の幸せが一番憎くて、自分は幸せになるべき人間ではないと思っていたわけですから、どんなに幸せな出来事があったとしても、幸せより、後ろめたさとか憎しみとか、そういう感情の方が強かったわけですし。

幸せを幸せに感じられないこと以上に不幸なことは、ないと思います。

まあそんな私を卒業して、今の私は、幸せに幸せを感じられるようになったわけですけれど。

幸せの匙加減が、よく分かりませんね。

どのくらいのわがまままでが幸せになるために許されるもので、どこからがただの贅沢になるのだろうか、みたいな。

でも、ひとまずは、心の向くままに生きてみようと思います。

心の向くままに、遊ぶし、笑うし、食べるし、買うし、出かけるし、お洒落もしたいと思っています。

そうしているうちに、もうちょっと贅沢がしたくなって、仕事をしてみようと思れば、それはそれで一つの人生かなと思っています。

いきなり仕事が難しくても、地域活動センターとか、習い事とか、そういう形の社会に出られるだけでも、十分成功であると思っています。

私の人生は、ほぼ確実に、未来の方が圧倒的に長いですから、いつまでもこのまま、なんてことはないでしょう。

今、ほんの少しだけでも幸せに近づけたことが、私の明るい未来を切り開いてくれることを信じています。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。