見出し画像

欲しがるほど手に入らない

 先々週の記事は、本当はこのタイトルでかこうと思っていたのですが。
 かいているうちに話が二転三転して、なんだか良い感じの着地点に辿り着けたので、気に入ってそのまま投稿してしまった、なんて裏話があったり。

 今日のお話は、あまり明るい話ではないかも。
 今日もまた、私の『期待』のお話です。

『人気者』になりたかった

 私は、小さい頃からあまり人が集まるタイプの人ではありませんでした。どちらかと言われると、ごく一部、少数の人と仲良くしている方がうまくいくタイプでしたね。
 言い方を変えると、排他的なタイプでした。ASDという病気の影響もあったのだと思いますが、自分の世界に没頭することが多く、その世界観を壊されるのが苦手でしたね。

 その一方で、やはり人の集まるクラスの『人気者』ポジションに、強い憧れを抱いていたし、幼いながらに『嫉妬心』もあっただろうと思います。
 保育園のお遊戯会で、女の子はダンスをすることになった時、当たり前のようにセンターボジションを掻っ攫っていった中心的な女の子に「ずるい!」と思っていました。今思えば、体つきが良く身長も高かったので、センターに据えると見た目的なバランスが取れたというだけのような気もしますが。

クラス委員

 小学生3年生くらいだったかな。どの学校も『クラス委員』という、クラスのまとめ役がありますよね。
 特に野望があったわけではありませんが、なんとなく「やりたい!!」と思っていました。多分、クラス委員になれば人気者になれるくらいの気持ちだったと思います。

 そういう主張の激しい、自己顕示欲が前に出ている人って、まとめ役に向かないんですよね。自分のやりたいように集団を動かそうとしてしまうから、集団はそれに振り回され、困惑するだけっていうか。
 そもそも、自己顕示欲のために人の上に立つという時点で、論外なんですよ。信用や信頼があるから、人の上に立てるのであって、人の上に立ってからそれらを築くべきではありません。

 しかしまあ、人生ってよくわからないもので。
 こんな私でもたった一度だけ、クラス委員を担当したことがありました。小学3年生か4年生の頃だったと思います。
 まあ先述した通り、人気者になりたさ故に立候補したので、もう一人の子が要領の良い子で運が良かったって感じですね。話し合いの指揮を取るとか、マジで向いていなかったと思います。

 そこでやってみてわかったことは、当然のごとく、「自分、この役割に向いてねぇわ」ってことと、「クラス委員になったからといって、人気者になれるわけではない」ということです。
 話題性というか、一時的に人の目を集めることはできますが、人間として人を集めるかどうかは別の問題ですからね。友人が増えるわけでも、交友関係が変わるわけでもなく、ただクラス委員になって転けたという事実を作って終わりでした。

合唱コンクールの実行委員

 それ以降、立候補することはあったと思いますが。5年生、6年生にもなれば、当然のごとく他のより向いている人たちに役割を取られます。
 というか私は、小学5年生で転校したと同時に、人生でいちばんのグレ期を迎えるので、論外なんですけどね。

 そんな時代を乗り越えて、人生やり直すつもりでスタートした中学1年生の2学期、私は担任の先生の推薦により、合唱コンクールの実行委員に任命されます。
 小学5,6年の頃、かなり人間不信を拗らせていたので、先生の方から「お願いできる?」と声をかけられた時は、とても嬉しかったことを覚えています。少し不安ではあったものの、快諾というか、是非!って感じだったと思います。

 もう、具体的な仕事とかは忘れてしまいましたが。やっていて、とても楽しかったことは覚えています。
 また、小学生の頃の失敗を活かして、あまり自己主張し過ぎないようにというのも、多少意識していたような気がしますね。気がするので、正確な記憶ではないかもしれませんが。

 そんないい子ちゃん時代の中学1年生は、当初こそ小学生の言動が響き黒い噂が流れたものの、クラスでもそれなりのポジションの生徒だったと思いますよ。各クラスにある班の活動で、リーダーか副リーダーをやることが多かった気がするし、成績も良かったのもあってか、どちらかと言われると『頼れる人』だったかもしれません。

放送委員

 その後さらに、学年で数人という少数精鋭部隊である『放送委員』に抜擢されることになりました。こちらは学年主任からの推薦というか、小学生の頃に放送委員を希望し真剣にやってたことが大きな理由かと思います。

 保育園や習い事の発表会、ショッピングモールのインフォメーションなんかで、マイクを持って何かを言う人に憧れていました。小学校に入学してからは、放送委員に憧れるようになりました。
 こちらは、「人気者になりたい」というよりかは、「人の視線を集めたい」という気持ちに近かったと思います。放送委員は視覚ではなく聴覚ですので、「自分の声を、誰かに聞いてもらいたい」と、漠然と感じていたのではないかなと思います。『自己顕示欲』というよりかは、『奉仕』したかったですね、誰かのためになれるのが素敵だと考えていました。

 お昼ご飯を、超静かな放送室で食べる特別感も楽しかったですね。
 みんながご飯を食べている間に放送をするため、お喋りをしている途中、お腹が鳴らないかが心配だったのは良い思い出です。

 噛んだことやイントネーションをミスったことは何度かあったでしょうし、先生に「ここは区切って」「もっとはっきり」「このくらいの速さで」などなど、ダメ出しされた回数はとてつもない数だったと思いますが、それさえも楽しんでいました。
 本当に純粋に、『放送委員』のお仕事が大好きだと感じていたんだなって、今更ながら思います。

崩れる世界

 こんな些細な成功が掻き消されるほどに、大きな挫折と絶望が訪れるのは、今まで何度も記事にしているので深くは言及しませんけれど。

 でも、今だから言えることとして、「成功していた頃は、成功したいだなんて願っていなかった」ということ。
 もっというならば、「認められたいと思わずとも、自然と認められるのが普通」だったのかもしれないな、と感じます。

 小学生の頃の私は、クラス委員になって転けました。『人気者』への憧れという下心が、透けて見えていたからですね。それが言動にも現れていたのでしょう。
 中学生の頃の私は、なんというか…降ってきた幸運に恵まれ続けていました。合唱コンクールの実行委員も放送委員も、「欲しい」と望まずとも、自然と想いが届き、実っていたように感じます。

 高校生になってからの私は、「こう在りたい」という自分の姿と、「そう成れない」現実の自分とに苦しみ続けていました。
 自意識が芽生え、些細なことに敏感になって自分を見失う思春期・反抗期らしいといえばらしいですが、それが全く許容されない家庭環境によって、その後の人生はもう決まっていたように感じます。(家庭環境が悪いというわけではありません。ほんの少し、私の運と経験と思慮が足りなかっただけ。)

 高校生の頃、とにかく「認められたい」という一心で、闇雲に頑張っている”つもり”になっていたように思います。全てが空回りしていました。
 実際、成績は上がったのですが、母がそれに無関心だった(何がどれくらいすごいのかを理解しようとしなかった)ために、自分というものがどんどんわからなくなっていきました。その上、疲れたから学校を休みたいと言えば、母は発狂する始末。

 時間の使い方が下手だったので課題に追いかけられる日々を過ごしていく中で、『自分』を見失って、迷っても立ち止まることを許されなくて、『目的』もよくわからなくなって。気づけば周りが暗闇の中の迷路のような状態でした。
 とても、つらかった。

いつだって、欲しがるものは手に入らない

 幼い頃に憧れた『人気者』に、私はなれなかったと思います。
 しかし、本当に大切だと思える出会いに恵まれたので、なれなかったことを後悔するようなことは全くありません。

 中学生の頃は、『バリバリ働くかっこいい女性』に憧れました。キャリアウーマン的な何か。だから、高校は飛び級感覚で終わらせて、さっさと専門学校へ行きたいと考えていました。
 しかし、高校生になって、高校の大切さを感じたので、なんだかんだ普通に在学して勉強していましたね。また、『働く女性』には、今でもなれていません。

 高校生の頃は、『理系の大学生』や『教員免許』に憧れました。行きたい大学や、学びたい学問、研究したい分野、行きたい研究室なんかも見えていて、勉強を頑張っていた時期もありました。
 しかし、大学生は疎か、一校も受験すらしませんでした。センター試験だけは受けに行きましたが、それだけ。

 私が欲しがるものは、いつだって手に入りませんでした。
 そしていつだって、軽々と手に入れる人たちが、周りに何人もいたのです。

 私はよく、そういう人たちと、自分と、一体何が違ったのだろう?と考えます。
 目指したい気持ちは人一倍強かったはず。
 頭が悪いとか要領が悪いとか…まあそれは仕方ない。愛嬌です。←
 それに向けての努力も、しようとはしていました。

 やはり、心身が『健康』だったか、という点が一番大きかったように思いますね。

手に入らずとも

 ぶっちゃけ、どう頑張ったって『健康』になれない人は存在します。

 『遺伝的要因』と『環境的要因』なんて言葉を使ったりしますが。
 生まれつき病気を持っていたり、発育途中で病気を発症しやすかったり、環境的に病気になりやすかったり。

 私はよくYouTubeで障害児のドキュメンタリーを見るのですが。
 『道化師様魚鱗癬』や『表皮水疱症』のような難病は、『遺伝的要因』が大きいようです。遺伝情報はどう頑張っても書き換えられないので、投薬などのケアと、周りの支援によって社会活動をしている人がたくさんいます。

 私のように、うつ病の多い家系だったり、家庭環境が劣悪だったりすると、『遺伝的』にも『環境的』にも、精神疾患を発症しやすかったりします。
 一方で、発達障害は精神疾患を併発する確率が高いことから、『遺伝的』な要因が強いとする考え方もあるでしょう。発達障害の親が発達障害の子を育てることで、健全な親子関係が築けず精神疾患になるというケースはよくある…的な印象です。(不確かな情報ですが)

 一型糖尿病や、数ヶ月前までニュースの話題だったコロナウイルスによる後遺症なんかは、『環境的要因(感染など)』で、誰もがなり得るものかなと感じます。

 歳をとれば誰だって、認知症になったり、糖尿や高血圧に悩まされたり、足腰が弱くなったりします。
 これもまた、家系によって、アルツハイマーになりやすいとか、糖尿病になりやすいとか、『遺伝的要因』もあるようですが。今まで散歩を続けてきた人はめっちゃ足腰が強かったり、揚げ物やお菓子をよく食べる人は高血圧になりやすかったりといった『環境的要因』の側面もありますね。

 自分の『健康』を守ることって、思いの外難しいと思うんです。
 私だって、好きで『健康な自分』を失ったわけではありませんし、誰もがそうだろうと思います。できることなら、ずっと『健康』で在り続けたかった。

 それでも、起こったことは仕方ありませんからね。
 今できることを探して、前に進むしかありません。もちろん、自分だけでなく周りの人の力を上手に借りることも大切でしょう。

ささやかな…?

 私は、たくさんの『手に入れ損ねたもの』がありますし、惜しむ気持ちもありますが、今の私なりに前を向いて進んでいます。
 30になるまでには、大学を卒業できたらなぁなんて、ざっくりと思ったりもしています。通信制でも定時制でもいいから、やっぱり大学を卒業したいし、興味のある分野について研究をしたいし、教員免許だって諦めきれません。

 私のささやかな夢…いや、全然ささやかではない野望といっても差し支えないように聞こえると思いますが。
 『数学界のでんじろう先生』みたいになりたいなぁと思ってます。

 『科学』という分野を、親しみやすく面白いコンテンツに昇華したでんじろう先生のように、『数学』という学問を、少しでも「楽しい」と感じる子どもを増やす活動を、いつかしてみたいです。ワークショップ的な感じで。
 でんじろう先生ほど、全国に名を轟かせようとは思っていませんが、何人かの子どもが、数学をちょっと好きになるお手伝いができたらいいな、くらいの気持ち。
 本当に、野望なんかではないんです。

 「できたらいいな」くらいの気持ちなら、手に入ってくれるといいな、と思ってます。
 「欲しい!」と強く願うと、ふしぎと手に入らなくなってしまうから。

 私の想いが、いつか未来の私へ届きますように。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。