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頑張り過ぎた人に、「頑張れ」って言う

 つい先日、ツイッターのトレンドに『自殺予防』だったかな。
 そんな感じのワードが入っていました。

 そこのツイートを見てみると、「死にそうなら逃げて!」派と、「簡単に逃げられないから死にたいんだよ」派に分かれていて、不謹慎ながらも面白味を感じてしまいました。

 今日の記事は、これに関する私の持論のお話。

『自殺』は究極の選択

 私が自殺未遂をして危険な状態になったことは、個人的に0回だと思っています。

 ODで、ちょっとやばいかもしれない量を飲んで、救急搬送からの胃洗浄のコンボを決めたことがありますが、正直、あの時は「死にたい」よりも「助けて」という気持ちの方が強かったです。
 病気の時って、優しくされますよね、あれを人為的に起こして、優しくされたかったみたいな。自殺したいという言葉よりかは、自殺未遂がしたいって感じです。

 そうカウントすると、自殺未遂というところまで行動を起こしたことはありませんし、今こうして生きて記事をかいているので自殺もしたことはありません。

 しかしまあ、自殺を本気で考えたことは何度もありますね。
 遺書をかいたこともあります。かいた遺書を燃やしたこともあります。

 そういう経験があるから言えますが、自殺って究極の選択だと思うんです。
 自殺しようという結論に辿り着くまで、きっと何度も自殺未遂を犯しただろうし、様々な罪悪感に駆られ葛藤していただろうし。何より、自分がどうにかして生きる方法はないかと、模索し続け疲れた結果、自殺という選択をせざるを得なくなっただけだと思うんです。

道はなくとも、地面は続いている

 自殺を考えている人に対し、「そんなに苦しいなら逃げてもいいんだよ!」という言葉は、残酷かつ無責任であると同時に、救いの言葉でもあると思うんです。

 簡単に逃げられない派の人たちは、ここで逃げてしまったら、将来が真っ暗になってしまうとか、仕事を辞めてお金どうするのとか。そういう心配をされている方が多い印象を受けました。
 とても現実的で冷静な視点ですし、自然な考え、正しい考えでもあると思います。

 しかし私は、高校も仕事も、”辞める”という経験をしています。
 辞めることはとても簡単で、退学届や辞職届をそれぞれに提出するだけです。本当にそれだけ。薄っぺらい紙1枚で終わるお話。

 辞めた先でどうしたのか。
 高校を辞めるときは、もともと全日制の普通の高校だったのですが、通信制に転入学することにしました。単位を引き継ぐ手続きもしたので、ちゃんと3年で卒業できています。
 仕事を辞めるときは、生活保護の申請をしました。実家に戻るという選択は、母の都合上ありませんでした。本当は障害年金の申請も同時にしたかったのですが、当時はまだ20歳未満だったため、先送りになりました。

 なんだかんだ、その後の道って続いているんですよ。どうにかなる方法が、ほとんどの場合で存在しています。
 当然、以前と変わらない形、変わらない生活を続けさせるのは、無理があります。失うものもあるし、得られるものもあります。

 おそらく多くの人は、『変化』を嫌っているだけだと思うのです。
 妥協でも自棄でも納得の上でも、とりあえず現状どうにかなってしまっているのならばなおさら。今までなんとかやってこれたから、わざわざ労力をかけてまで危ないかもしれない橋を渡るのは、あまり良い行動とは言えませんからね。

 私がなぜ、高校や仕事を辞めるという選択ができてしまったのか、冷静に考え直してみたら、続けることがどう考えても不可能な状態だったからです。どう頑張ってももう無理だと思ったので辞めました。
 そこまで追い込まれたら、誰だって『変化』を嫌ってなんか居られない。変わらざるを得ないわけです。
 しかしまあ、一度経験してしまえば、そんなもんかって感じですよ。本当に呆気ないお話です。

本当に死にたいのか

 個人的に、一つ大きな疑問があります。
 簡単に逃げられないから死にたいと言っている人たちは、”死ぬしかない”と思って「死にたい」と言っているのか、なんとなくぼんやりと「死にたい」と言っているのか、どちらなのかということです。

 私が共感しやすいのは後者なので、先にこちらのお話をします。
 この先、どれだけ幸せになったとしても、充実した生活を送れていたとしても、私は心のどこかで「死にたい」と感じていると思います。
 しんどければ、しんどいから死にたい。幸せならば、今この瞬間に幸せなまま死にたい。私はそういう人なんです。
 ぼんやりと「死にたい」人って、何か要因があって死にたいわけではなく、お腹すいたとか眠いとか、そういう本能に近い部分で死を欲しているのだろうと思います。だから、自分が何をしようと、誰かに何かされようと、「死にたい」気持ちが消えることはありません。

 前者の方は、”死ぬしかない”と思って「死にたい」っていう人の話。
 こちらの方、これからひどいことを言います。すみません。
 それ、問題が解決したら死にたくなくなるんじゃあないですかね?
 つまり、問題の解決が面倒だとか、その場所から逃げるのが面倒だとか、言ってしまえば、自分の怠慢が原因だと思うんです。

 そうは言っても、逃げるのは簡単ではない。それもそうです。
 そんなあなたに私から、一つ質問を授けましょう。

 今を続ける努力と、逃げる努力、どちらがしたいですか?
 どちらの方が自分のためになると思いますか?

 今の状況に甘んじている方がラクだと思うのならば、それはそれで正しく賢い選択だと思います。
お金のため、将来のため、なんのためだっていいです。守りたいものを守れてさえいれば、あなたの勝ちですから。

 一方で、辞める努力がしたいと思ったのならば、いつまでにこうします!と『期限』を決めましょう。
 仕事なら退職日を決めて辞表を提出してしまいましょう。学校を、例えば転校・転学部などをしたいのなら、書類を出してしまいましょう。
 時間は勝手に進むので、その日までにどうにかすればいいのです。

 ずるずる続けて、ぐだぐだ不満を言い続けて、理不尽を嘆くことに飽き飽きしたのなら、その不毛なエネルギーを、辞める努力に注ぎましょう。
 今まで、続ける努力をしてきたあなたならば、正しく辞め、新しい道を切り開くこともできるはずです。

だからこそ「頑張れ」と

 辞めた先で、何もしないというのも、選択肢の一つとしてあるし、正しい判断だと思います。
 しかし、ずっと何もしないで居続けるというのは、意外と難しい。
 金銭的な問題もあるし、世間的な問題がある人もいるかもしれませんね。

 今まで頑張ったからこそ死にたくなったし、死ぬ代わりとして辞めるを選択した、満身創痍なあなたに対しては酷かもしれませんが。
 どうしたいですか?
 病気があれば十分な休息を取ることをおすすめしたいですね。
 元気があれば、何か今後使える資格を取ってみるのも良いかもしれません。ハロワへ行くのも良いです、就活のプロフェッショナルがサポートしてくれますから。
 別の仕事・学校を探すこともよい選択だと思います。その場所が合わなければ、色々な場所を肌で感じて、全てを経験にしていきましょう。

 こうして考えること、自分に向き合うことって、とてつもなく労力を必要とするんですよ。頭が痛くなるくらい、考え込むし疲れる。
 でも、今より幸せになってやるぞ!って、前向きな疲労だと思うんです。過去に悩んでいたことに関する後ろ向きな疲労よりも、ずっと健康的。(前向きな疲労を感じられないのならば、自分が思っている以上に疲れているサインなので、十分な休息を取ってからもう一度、向き合い直してみてください。)

 だから私は、「死にたい」と言っている人には、「いいから逃げろ!」という言葉と共に、「頑張れ!私はあなたを応援している!」と伝えたいです。全力で叫びたい。

 せっかくここまで、あなたの力で生き抜いたんだ。
 他でもないあなた自身が、あなたの頑張りを否定してどうする。
 逃げるは賢いからこそできること。決して恥じるべき行為ではない。

 これを読んで、少しでも誰かの背中を押すことができたら。
 少しでも、誰かが前向きに生きる力になれたら。
 そんなことを願っています。


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