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なんとなく生きること

幸福論を読んだことがありますか?数多くの幸福論が世に出ていますから、読んだことがある人も多いかもしれません。
幸福論という書名でなくとも、こうすれば幸福になれますよ、こうしているから私は幸福ですよといった類の自己啓発本や、ビジネス本がよくありますよね。
わたしは、幸福論が大嫌いです。自己啓発本やビジネス本をほとんど持っていないのはこの理由からきています。
幸福論は、まず、誰でも幸福になれるという基本態度を押し出します。次に、自分の体験と重ね合わせて、幸福とは大それたものではないこと、それは考え方を変えるだけで誰の足元にも転がっているという壮大な物語を造ります。
つまり幸福論は、第一に自分が幸福であると確信している人が書きます。そして第二に、誰でも自分と同じようにすれば幸福になると説きます。
この考えや構造は本当にばかばかしい、やめてくれと思ってしまいます。

不幸論では、幸福論をことごとく否定します。幸福であることの条件が難しすぎることについて言及し、幸福はまやかしであると説きます。また、幸福を感じる人々について、真実を見ようとしない怠惰な人間であると書きます。
わたしは、中学生の頃に不幸論や、反幸福論を読んで、不幸論者であると自覚しました。わたしはほんの少し前まで不幸論が大好きでしたし、不幸論者であることが正しいことであると確信していました。
今はあまり好きではありません。というか、わたしは不幸論者ではなかったのだと考えています。

今回は、わたしが不幸論者ではないと気がついたきっかけについて書いておきたいと思います。かと言って、幸福論者になったわけではありません。なんとなくたのしく生きていたいと考えています。
これから書く内容について過去の投稿「わたしのなかの精神医学」と、「絶望の化身 精神医学」また「世界はわたしがつくっている」を読んでいただけると少しわかっていただきやすいかもしれません。

過去、わたしは、不幸であるという世界を作っておきながら、それを嘆く自分という構造に陶酔していました。また、幸福を感じられないこに対して、何かが救ってくれる状況を信じていました。これは意図的にそうしていたわけではありません。
今でもたまにそうなってしまう時があります。
そしてこれを、不幸論者であると感じ、ニヒリズムの真似事を行なっていました。
不幸であることの方が正しく、世は無常であると信じながらも、なぜ幸福になれないのかと嘆き続けてきました。
それは、周囲から不幸であると認めてもらうことで、責任から逃れるため、また許しを乞うため。
そんなことをし続けた結果、わたしは精神疾患患者になっていったのだと思っています。

ここ最近で、不幸論と、反幸福論を読み返したのですが
彼らの言っている不幸論は、わたしがこれまで考えていた不幸論とは全く違ったと気が付きました。
彼らの言う不幸論とは、不幸を前提として全てを諦める姿勢
だったのでした。
以前のわたしの、不幸なわたしを認めろというそんな姿勢ではありませんでした。もちろん当時(中学生)のわたしは、不幸なわたしという世界を作っておきながらそれに嘆く自分、また他者にそれを認めさせようとする自分に自覚が全くありませんでした。ただ、この世界は不幸なんだ、そうに違いないと考えていただけです。それで不幸論を用いて、嘆く自分を正当化していたのだと思います。いちばん厄介なのは、その状況を救ってくれるなにかがきっとあると信じていたことです。
それは、恋人だったり、宗教だったり、友人だったり。最終的には精神医学になったり。
どれも願った通りにはならず、その度に絶望感を味わってきました。そしてわたしはその絶望感がたぶん好きでした。
わたしを救ってくれるはずだった絶対的存在に裏切られたと感じ、さらに不幸な自分 という世界を作り上げることに酔いしれていたと思います。
その世界を作り上げることに限界を感じたのは、わたしの中で最後の砦くらいに考えていた精神医学への絶望です。(このことの詳細は過去の投稿をご参照ください)
限界を感じたのと同時に、不幸な世界を作り、それに嘆く自分に酔うことがいかにばかばかしいことかに気がつきました。
ただ長年のくせであるため、この構造を無意識に作ってしまうときがありますが、そういうときは意図的に修正をしています。

そしてわたしは現在、不幸論者のニヒリズム的な思考もあまり好きではありません。好きではないというか、できないと思います。なぜかというと、おもしろくないし、たのしくないからです。虚無であると言い張って、それで生き続けるのは、わたしにとって本当に苦行です。かっこいいなと思いますが、できません。だから、嫌いです。
しかしある部分では、不幸論的思考をしているから成り立っていると考えられる行動もあります。
たくさんのことを諦められるようになったのは、やはり幸福などない、幸福は作れないと少しは考えられるようになったからでもあります。
だけど嫌いです。幸福だ!と言える状況が絶対にない世界は嫌だからです。どんな刹那的なものでも、幸福!と言い張れる世界はあると思います。いや、実際にあります。

かと言って、こうすれば幸福になれるのだよ
幸福にならなければ正しくないのだよ
という押し付けをしてくる幸福論
は、嫌いです。べつにいいでしょ、不幸だと感じているときがあっても。


よってわたしは、幸福論者ではないし、幸福論はきらい
不幸論者でもないし、不幸論もきらい
ということになります。


対極する二つの思考があったとき
どちらかの思考法を持たねばならないと以前は考えていました。
しかしここ最近は、知識として持っている、自分はどちらも語れるし、どちらにもなれる
という状態がいちばん心地よいことに気が付きました。
どちらかの思考に偏って、正当化を強化せねばならない状況下にいる場合、反対の思考を正しいのかもしれないと考えてしまった場合に、限りない自己否定のぐるぐるが頭の中を巡ります。また、排除しなければという強迫的な態度にもなりかねません。
そのような状況は苦しいですし、新たな考えや発想を殺してしまいかねません。またわたしは思想が強いオバサンになることを恐れているのですが、そうなってしまいかねません。
幸福論と不幸論の場合は、生き方や言動にかなり影響するものですから、容易にこちらが正しいのだと決め込むのは危険だと思います。どちらの態度をとってもいいという状況を自分の中でとっておくことが大切だと考えます。

言語化が少し難しいのですが、わたしはこれまで
固い粘土だけど、一度信じると柔らかすぎる粘土に変わり何がなんでも受け入れる、粘土の形をどれだけ変えてでも、粘土がバラバラになろうとも、受け入れなければならない
そのような感じだったのですが
最近は、程よく柔らかい粘土 になってきていると思います。

これは、社会に適応するためにそのようになったのだと言うとわたしが納得しないため、わたしがたのしく生きるためにそうなったと言うことにします。
社会に適応するためにそうなったとするならば、この考えが間違っていたと考えたときに、社会のせいにしかねないですし。
わたしがたのしく生きるためにそうなったとするなら
飽きたり、ちがうなと思ったらまた、わたしをたのしませるためのべつの何かを探すだけですから。


そうやってなんとなく、たのしく、生きていきたいです
と、22歳のわたしは思っています。

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