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絶望の化身「精神医学」

現在わたしは、精神科の慢性期病棟に実習に行っている。
自分が入院していて、現在も外来通院している病院である。
この実習でのわたしの個人的な目標は、慢性期の精神疾患患者の特徴を捉えること、また回復の希望を見出すにはどうすればよいのか考えることである。
過去のnote「わたしのなかの精神医学」を読んでいただいている前提で書くので、まだ読んでいなければまずそちらから読んでいただきたい。

実際に実習がはじまり、日々を過ごしていく中で
わたしは、精神医学に対して新たな視点を得た
わたしが受け持っている患者の例を使い述べる。

患者紹介
B氏
統合失調症(妊娠妄想が強い)
72歳 老年期
女性
キーパーソン 夫
家族 夫、長男、次男

19歳頃から長期的な入退院を繰り返し、今回の入院は2019年からで14回目
すべて夫の同意による医療保護入院
夫は入院の継続希望し、ソーシャルワーカーによる特別養護老人ホーム入所の申し込みを自ら断る「帰ってきてもたいへんですから」「どうにでもしてください」
次男、同病院のデイケア利用「こんなアホしらんわ!」面会後は高確率で立腹

看護上の問題点の見つけにくさ
この患者は、長期的な入退院を繰り返しており、今回は14回目の入院。入院直後は、易怒性、衝動性、不穏などみられ急性期病棟の隔離室で生活していたが、症状軽減し、現在の慢性期病棟に転棟している。
わたしはそのような人を受け持ち、看護を展開することとなった。看護の展開は、大まかにいうと情報を収集し、その中から看護上の問題点を挙げていき、問題に対する看護計画を立て、実施、経過を記録し、最後に要約するといった流れで行う。
今回慢性期統合失調症患者の看護の展開において、看護上の問題点を挙げることがもっとも困難であった。

その原因として、本人に治療意思がないことが挙げられる。看護上の問題とは、患者の生活上の困りごとと同義である。
症状としてわかりやすく妊娠妄想が出ていたため、妊娠妄想による看護上の問題を探したが、特になかった。
過去はわからないが、現在は妊娠妄想による易怒性はみられないし、コミュニケーション不能に陥ることもない。また、服薬を一部拒否するが、医師が調節し、B氏がのめる範囲で、効果が期待できる量が決まっている。服薬管理能力はないが、退院先は特別養護老人ホームであるため、必要がない。
症状は出ているが、その症状と長年付き合い、その中で得た経験から、独自の方法で、入院生活に適応している。またそれは他の患者にも言えることであった。長期的に入院しているB氏は、社会での生活期間が短いため、入院生活に満足してしまっていて、困り事など一切ない状況なのであった。
言い換えると、洗脳を了解している。
B氏にとって入院はよいことであるゆえ、看護上の問題点は見つからない。
また、B氏の家族である夫も、入院継続を希望している。入院前も、困りごとを抱えていたのは家族であって、入院によりその困りごとが解消してしまう。となれば、家族にとっても入院はよいこととなってしまう。それは、任意入院が一度もないことからも言える。カルテ上ほとんどの患者が家族の同意による医療保護入院である。
そして病院側からしても「金のなる木」である患者を解放してしまうのはもったいないと感じるため、退院できない状況に導く。

このように、関わり合っている三者(患者、家族、病院)がすべて納得し、満足している状況に
看護上の問題点を見出すのはかなり困難な作業であり、誰も望んでいないことである。


急性期なら...
このような状況に関してわたしは、急性期で、入院期間がそれほど長くないうちは看護者の関わり方によって精神疾患から脱する患者が生まれるかもしれないと感じた。急性期であれば、仮に治療意欲が乏しかったとしても、意欲向上に関して看護できることがあると感じる。入院期間が短ければ短いほど、その患者はまだ社会との距離がそれほど離れていないということになる。たとえ入院以前に引きこもりであったとしても社会のなかで生きていたことに変わりはない。となれば、情報提供や、少しの経験の援助などにより、治療意欲を持たせることが可能になるのではないだろうか。しかし希望的観測に過ぎないのかもしれないし、社会との隔絶(精神医学の洗脳)を望んだ患者を看護し、わざわざ社会での生活に戻すことは、本当に正しいことなのかがわからない。また、本人にとって幸福なことなのかも、わからない。


現代社会が生んだ絶望の化身
わたしは、以前精神医学を、現代社会において仕方のないものとして位置付けた。今回の実習中にわたしはその思いを強化することとなった。精神医学は、仕方のないもの。あるべきではないのだが、あるしかないものであるという認識が強くなった。しかし、自身の入退院の過程にて得た 医療者側が悪く、お金儲けをするために患者を利用している という視点ではなく、精神医学に関わる人すべてにとって、精神医学とは仕方のないものであると考えるようになってきている。
これまでは、「治療意思のある患者」という視点でのみ、精神医学を捉えていたため騙されている、利用されていると感じることが多かった。また患者はすべてそうであると決めつけており、視野が狭くなっていたと感じる。
現代社会が生んだ絶望の化身という表現をしたのは、単にわたしが厨二病であるからではない。
患者、家族、医療者 精神医学に関わるすべての人にとって、精神医学は絶望の姿でしかないからである。精神医学に関わるすべての人が、ある一定の諦めの感情を持つことになるともいえる。

患者にとっては、それ自体がまさに絶望である。生きることを諦める、社会的な意味において人間であることを諦めることになる。現代において、社会的に人間であるということは、ときに身体的、精神的に人間であることよりもはるかに重要なこととなる。

家族にとっては、もっとも身近である人が、生きることや社会的意味においての人間であることを諦めていく様、諦めなければならない様を見ることになるという点において絶望的である。また、ときには自らの判断で、もっとも身近である人に、生きることを諦めさせなければならない状況に陥る。そのような判断が一番正しいのだと思わされる。

医療者にとっては、患者や家族たちが諦める様を最も多く見なければならない点において絶望的である。また、医療者なのに対して、特別な例を除いて患者や家族のことをどうすることもできない。しかし、業務内容は身体的にはラクであり、給料も、他の病院と大差はない。そのようなことに関して、諦めるしかない状況が多くある。

しかし、わたしは絶望が悪いことであるとは考えていない。わたしは元来、絶望感が好きなのだと思う。どうしようもない
という状況が好きなのだと思う。なぜなら生まれてから何度も
どうしようもない状況に陥ってきたし、答えが出ないことに関して考えたり、話し合ったりするのが好きだから。以前は答えを出そうと突き詰めて苦しくなったりしたが、現在は楽しい、好きだと思える範囲を大幅に超すことはない。また、間違っているのは分かっているし、納得はできないが、排除しなければならないとか、正さなければならないとか、そのような強迫じみた思いを持たなくなってきている。
そしてこの社会の絶望の化身としての精神医学は、存在自体を肯定することなど到底できないが、間違いなく、誰にとっても仕方のないものであるということを理解し始めている。


身体拘束のカンファレンスにて
本日行った身体拘束のカンファレンスでは、身体拘束にて、浮腫が起こり、その後下半身麻痺に至った事例について検討した。カンファレンスでは、患者側からの思いや、医療者の思いについて考えた。最終的には、身体拘束などの行動制限などを行う際には、人権を尊重し要観察し、対象に不利益が起こらないように留意するという答えを出すべきであり、それがこのカンファレンスの目的であることは理解していた。
しかし、精神医学がそもそも正しいものなのかについて疑っているわたしは、身体拘束についての答えをどれだけ考えても思い付かなかった。
死にたいと訴え暴れる患者を拘束または隔離し、訴えが消失するまで続けるというのは、本当に人権を尊重した行動なのだろうか。わたしはそのことについて正直に話したが、看護師は、その後生きたいと思えるところまでもっていくのが看護や医療の仕事だと言った。本当にそのようなことが可能であると考えているのだろうか。また、可能であるとしてそれは正しいことなのであろうか。



追記
諦めるという点において絶望的であるが
その中で満足して生活している人も多数いるとデイケア、就労継続支援B型での実習の中で知った。
内海さんの話は医療者、また健常者に寄りすぎた視点であると感じた。
わたしの中でその衝撃が大きかったため、またプライドが諦めに勝っていたため
騙されるなという思いを強く持っていたが
仮に完全に騙されているとして、その人が幸福ならば
なんの問題があるのかがわからなくなった。
健常者であっても、えらいひとに騙されながら幸福になる人が多い。

本人たちも、さまざまなところで折り合いを付け、症状を抱えたままできる生活の妥協点を見つけている。
色々な葛藤があったと思う。プライドをへし折って諦めて生きているのだと思う。
わたし自身、自立支援を利用しているが、やはり利用することに葛藤があった。

わたしはそこまでしないと生きられないのか
そうまでして生きたいのか
恥ずべきことなのではないか

自立支援を利用するだけでそれだけの葛藤がある。例えば障害者手帳を交付するとなれば、もっと大きな葛藤があるのだと思う。
そんな人々に寄り添いたい
そのために、精神医学に対する批判的な視点を一度持ったのだと思うことにする。

えらいひとに騙されながら幸福であると言い張る健常者
そんなものになるために私はさまざまな葛藤を抱えていたのだとしたら、私の方がバカでマヌケで、さらには差別的である。

それでいてわたしの苦しみを、、とか

とても傲慢だった。わたしはこれからも
えらいひとに騙されながら幸福であると言い張る健常者
であるための、そんなちゃちなプライドも捨てられずにいるのだと思う。

そう思うと、精神疾患患者は
ありのまま生き、下に見られるということを完全に恐れない
この社会での被差別者でありながら非差別主義者なのではないだろうか。

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