写真作品「半透明の時間」
わたしは、具象表現と抽象表現、あるいは日常と非日常の懸け橋となる美を表現の中心に据え、アート作品の制作と発表を続けている写真家です。
これからご紹介する「半透明の時間」は、2023年7月、福島県福島市郊外の風花画廊において、個展を開催し発表した作品群です。
このnote記事では、それぞれの写真に籠めた精神をあらためて解釈し直し、自問自答や散文、詩に似た形で付記しました。それは解説でもあり、場合によってはそうでなくもあり、わたしの心が漏らしたつぶやきのようなものと受け止めていただけるなら、ありがたく存じます。
「半透明の時間」
Q:時間は半透明なのですか?
A:目には見えないけれども存在する。存在するけれども目には見えない。掴みどころのない時間の性質を、比喩的にタイトルに用いました。半透明の水晶のように結晶化した時間≒写真。そんなイメージも重ねています。
Q:そもそも時間は存在していないのかも?
A:時間もこの世界も、それらを認識しているはずのわたし自身も、存在の確証はありません。ならば、わたしやあなたがそれらを感じ取るときにはじめて、それらは存在し得ると考えてみるのはどうでしょう。
Q:ところで、これは何を撮った写真ですか?
A:花びらです。何の花びらだったかは、記憶に残っていないのですが。
「空に坐る」
つかの間の水鏡
誰もいない公園のベンチ
「別世界への入り口」
そのフレーズは陳腐だと君は言う
そうだね
鏡に閉じ込められているのは
僕らの方かもしれないね
「邂逅」
邂逅
出会うこと
ボーイ・ミーツ・ガール
ガール・ミーツ・ボーイ
そしてぼくは君たちに出会った
一瞬の彫像である君たちに
「融けた鏡」
何を写したか自分でも忘れてしまった写真は
この一枚だけだ
融けた鏡にはもう何も映らない
「Sign」
サインはある
思いもよらぬ形で
意味はわからないとしても
Signs exist.
In unexpected ways.
Even if we do not know what they mean.
「冬の庭」
言うなればここは自然の箱庭
冷たい冬の風に晒される樹木に見えるのは
新雪の上にかろうじて顔を覗かせた小枝
見立て
枯山水のごとく
「発生」
一体何を写したのか?
写真展の会場で何度も尋ねられました。
その質問を投げかけたくなる気持ち、よくわかります。
そこに写っているものは何なのか。大切なことです。
「写真」は間違いなく、目の前にある「何か」を写したものなのですから。
でも、わたしは答えません。決して意地悪をしているわけではありません。
「何か」は、間違いなく「何か」であると同時に、「何か」に留まりきれるものではない。そう思うのです。
いま、この瞬間、あなたの想像の根から「発生」する不定形の「何か」。
アートは「クイズ」ではない。
写真は「なぞなぞ」ではない。
いや「なぞなぞ」であっても問題ないのだが。
ただし、正解を持たない「なぞなぞ」なのだ。
「鼓動」
震える指先がシャッターボタンを押す
ぼくはちょっとだけ
世界とsynchronizeできた気がした
世界は常に揺れ動いているから
ぼくもカメラも一緒になって
揺れ動き続けなくてはいけないんだ
「歴史」
Q:歴史、というよりも、地層に見えます。
A:言われてみれば。名付けを間違えてしまったかもしれません。
Q:積み重ねられていくもの、という意味ですね?
A:闇に呑まれ消えるもの、という意味でもあります。
「かそけき」
「幽けし」
ほとんど使われなくなった言葉
意味が伝わらなくなりかけている古い言葉
「かそけし」がどんどんかそけくなってゆく
そう言えば「命影郎」って覚えてる?
ウッチャンが昔演じていたコントのキャラクターだよ
「因果交流電燈」
ふたつ、灯ってはいるけれど
写真とは(生きるとは)
明であり(明でなく)
滅であり(滅でなく)
「Blue in Blue」
プレゼントするよ
永遠に青い空
永遠に滅び続ける青い花
「赤い野」
ふと振り向くと
赤い野が広がっていた
幾重にも重なり合った花々が
音もなく風に揺れていた
ぼくは目の錯覚だと思った
なぜならあまりにも赤かったせいで
不自然なくらい赤が横溢していた故に
「入り口《何処へ》」
Q:「入り口」はあなたにとって気になる概念ですか?
A:ええ、とても気になります。われわれは誰もが、見知らぬ入り口を通ってこの世に迎えられるのですから。
Q:それは入り口でもあり...…。
A:出口でもあります。
Q:つまり、この写真は、産道のイメージと捉えて構わないのでしょうか?
A:もちろん構いません。それがすべてではありませんが、そのような見立ても可能です。思うに産道は参道であり、「Yes」すなわち賛同の対象でもあるのです。
Q:生まれるときは。
A:そう。生まれるときは、誰もが。