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DAY21#42/怪物だーれだ

他人を傷つける者は悪だろう。と、子供の頃は思っていた。
しかし、テレビの時代劇「必殺仕事人」を見た時、彼らは悪ではないかもしれない、と思った。
「他人を傷つける者」は悪だが、その他人が悪人の場合は例外、みたいな感じに、価値観は修正されたような気がする。
小学生の頃、人を殴った事がある。いじめっ子なら殴っても良いと思った。そいつは悪だから。
友達を殴る奴は殴っても良いと思った。たぶんそいつも悪だから。
殴った相手からはもれなく殴り返された。こてんぱんにされた。たぶん、彼らにしてみれば私の方が悪だったのかもしれない。

やられたから、やっていい。
被害者には加害の権利がある。
大義があれば悪じゃない。

そんな考えが暴力を生み、暴力を許すのだと思った。
そこに善も悪もなく。被害者意識がトリガーだ。

悪はどこにあるのか?

90年代頃から、ニュースで様々な残酷な事件が報じられ始める。途切れなく。いつもだった。
その頃、日本の法律にこういうのがあると知る。
結構ショックを受けたことを覚えている。

刑法第39条 
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

1999年に、この刑法第39条をタイトルに冠した映画も公開された。森田芳光監督の「刑法第39条」という凄まじく興味深い作品だった。

仮に、便宜的にでも、国家が定義づける「悪」があり、それは刑法によって罰せられるのだ、とするならば、上記の刑法第39条によると、心神喪失または心神耗弱なる者はその対象にはならないということになる。
これ、何を言ってるかというと、罰せられるのは「なにをやったか」ではなく「悪意があったか」なのだ。「悪事」ではなく「悪意」が悪ということだ。

つまり、客観的に見て、どう見ても悪魔の仕業としか思えないような凄惨な殺人事件や傷害事件があっても、その犯人が心神喪失・心神耗弱であるとされた場合、その事件から「悪」が、ふっと、消えて無くなるのだ。

悪はどこにあったのか?

「行け!稲中卓球部」という20世紀最高のギャグ漫画がある。その後、作者の古谷実が描いた2009年頃の作品で「ヒメアノ〜ル」という漫画がある。反社会的な性癖をもつ森田というキャラクターが登場する。サイコキラーだ。快楽殺人者だ。「なんで自分はこんな風に生まれてしまったんだろう」と自問するも、答えなんか出ない。まるで吸血鬼の孤独のようだ。紛れもなく彼は殺人者であり犯罪者であるが、さて、彼は「悪」なのだろうか?

私が今まで見た中で、1番好きなドラマは、2011年の坂元裕二脚本の「それでも、生きてゆく」という作品なのだが、これは、先述の「刑法第39条」と「ヒメアノ〜ル」を足したような世界観で、同様の凄惨な殺人事件の加害者とその家族、そして被害者家族、そしてそれを取り巻く環境について描いた濃密な人間ドラマだ。この作品も、悪とは何か、罪はどこにあるのか、という問いに挑んでいるように思えた。
そして、この作品を何度も見るうちに、私はこう思うようになった。

悪なんてものは、ひょっとしたら無いのかもしれない。

「ケーキの切れない非行少年たち」という本を読んだ。2019年頃だ。これはベストセラーになり、漫画にもドラマにもなったようだが、にわかには信じられない。本当にこれを多くの人が読んでいるのだろうか?この事を誰かが話してるのを私は聞いことないからだ。たまたま周りに居ないだけかもしれないけど。まあいい。

この本は、今まで私が疑問に思ってきた「悪はあるのか、あるならどこか?」という問いに答えていた。

要約すると「悪など無い」という立場で書かれている。著者である児童精神科医の宮口先生は少年院で、いわゆる「非行少年」とされる子供たちの治療と教育に取り組むにあたり、その「非行」というのは彼らの知能障害や発達障害に起因しており、それを適切な環境でケアすることができなかったために起きてしまったトラブルだとしている。そして、私が一番感動したのは、本書の冒頭に書かれてある一説で、意訳すると、

「子供を事件の加害者にしてしまうのは、教育の敗北である。」

という言葉。

私がこれまで抽象的な「悪」という言葉でこねくり回してきた疑問やモヤモヤを、こんなにも明快に、ハッキリと説明し、さらに指針を示してくれた。


悪はない。しかし、何かがあった。
人を、子供を加害者にしてしまう何かが。
その「何か」は、たぶん、環境や時代によって姿かたちを変えて現れるのだろう、と思う。

じゃあ、今この日本では、この街では、何が人を、子供を加害者にしてしまうのだろうか?
どんな姿かたちで彼らの前に現れるのだろうか?

その答えが、是枝監督の映画「万引き家族」と「ベイビーブローカー」と「怪物」にきっちりと描かれている。
ついでにいうと、「ベイビーブローカー」のインスパイア元になったであろう韓国ドラマ「マイ・ディア・ミスター 私のおじさん」にもガッツリ描かれている。しかも「マイ・ディア・ミスター」の中では逆に是枝監督の「誰も知らない」について語られる大事なシーンがある。

今日、映画館で「怪物」を観てきた。ここまで書いた事が全部串刺しになった状態の頭で観てきたんだけど、その最新の回答として、あのような素晴らしい演技、美しい映像と音楽、そして奇跡のようないくつかのシーンが観られてマジで良かった。是枝監督は本物。

※この記事を書いて半年ぐらいたって、この映画の「怪物」は、トマス・ホッブズの「リバイアサン」のことなんじゃないかと思っている。
共同体や国家が構成員から平和とトレードオフで委託されている「権力・暴力」を怪物・リバイアサンと呼んでいるのだが、その怪物がいない国の秩序は壊れサバイバルが始まる。そういう世界が描かれている映画なのかな、と思ったりもした。

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