『波間』稽古場レポートvol.3
前回のレポートを書いたのは11/8 だった。あれから20日間が経過し、紆余曲折を経て戯曲は完成し、同時に稽古は佳境に差し掛かり、舞台美術はその姿を表していた。稽古場自体は京都芸術センターからstudio seed boxに移り、会場である THEATRE E9 KYOTOと同じブラックボックスのため本番の会場により近い状態で創作が進んでいた。作品の概要がぼんやりと立ち上がっていく様をみながら、改めて今回のアソシエイトアーティスト公演のテーマを思い返した。
今回の作品は、舞台美術によって三つの空間に区切られている。4人の俳優はその空間を行き来しながら、夢の中で起こる突拍子のない空間の飛躍をこちらに感じさせる。舞台の上に視覚的に配置された隔たりに俳優が触れたとき、または足で跨いだとき、またあるとき俳優がその影に隠れて見えなくなったとき、私たちはその空間に先程とは違った場所をみる。「見えないものを見せたり、見えているものを見えなくさせる」演劇や演技が持つ不思議な作用を補助する役割として舞台美術が機能しているように思った。それはアソシエイトアーティストとしてのテーマに“フィクション”を盛り込んでいるが故の演出なのだろうか。
もうひとつ、隔たりがあることで俳優たちの距離が大きく変化している。隔たりの中で行われる小さな空間での会話、そして視覚的に分断された向こう側との大きな(距離感での)会話。それは登場人物だけに限った話ではなく、観ている私たちに発せられるモノローグにも影響する。彼ら彼女らの言葉がこちらに届けられるより前に、一度物理的な障壁にぶつかる。それは前回のレポートに書いたような、私たちに向けられているようでそうではない、という対象の(意図的な)不安定感、曖昧さをより際立たせているように感じた。
視覚的な隔たりの存在によって私たちは劇世界に対して距離を感じたり、逆にすぐそこまで肉薄しているように感じたりもする。遠い遠い世界のことを話していても、それを語る俳優は確かにそこにいて、すぐそこで物語は繰り広げられている。これに対して、現実でも私たちはここで息をして、起き上がり、歩みを進め生活をしているが、ここ数年は想像だにしないことが当たり前のように起こり、私たちはそれを物語のように見つめることはできず当事者として渦中にいる。
現実と虚構の差は少しづつ縮まっていて曖昧なものに変化しつつある。波はすぐそこまで迫っていて、いつ現実と虚構の逆転が起きてもおかしくはない。
虚構……フィクションは現実になり、現実はフィクションにもなりうる。俳優の言葉や身体の作用によって空間が変質するように、「ここ」は唐突に「彼方」になり、「彼方」だと思っていた場所が、いつの間にかすぐ目の前の「ここ」になっているかも知れない。
この作品は、その波を私たちに感じさせるきっかけになるかも知れないと思った。
京都公演は今週末に。
本公演は北九州公演もございます。
そして、穴迫信一/ブルーエゴナクのアソシエイトアーティストとしての公演は来年にも続きます。ご期待と劇場へのご来場をお待ちしております。
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