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『人と人の間には”分かり合えなさ”という海がまたがっている』 ブルーエゴナク主宰・穴迫信一インタビュー

北九州拠点。音楽的感度を生かした手法を得意とする劇団『ブルーエゴナク』主宰:穴迫信一へインタビューを実施。

「人と人の間には”分かり合えなさ”という海がまたがっている」

はじまって終わるその構造自体が希望的と語る彼の演劇観や、時間/空間の捉え方の中で、今新たに見えてきた言葉や身体のあり方について話を聞いた。

『ふくしゅうげき』作品のテーマを教えてください。

 "いいと悪い"の話です。「いいこと/悪いこと」「いい人/悪い人」みたいに、人はそのどちらか2種類に分けられない。誰もがいい人になりうるし、ある面からみると悪人にもなりうるという問題意識から生まれた作品です。自分の個人的な経験から生まれてきた意識や作品ではあるんですけど、前回の京都公演の対談で、あごうさとしさんが「そのいい/悪いの感覚は、現代社会や風潮の中にも強く存在している。ふとした瞬間に悪人の立場にされたり、事件の当事者になってしまうことが今は珍しくない。現代社会は全員がそういう危うさを持って生きている」って仰られていて。それを聞いて「ああなるほど、そういう社会の風潮を無意識的・潜在的に感じていて生まれた作品なのかな」と納得した部分がありますね。

本作品では「水」の存在をとても感じました。気づかないうちに染み出してじわじわと侵食されていくような。あれは意図的に描いていたんですか?

そういうイメージで書きました。劇中の台詞にもあるんですけど「個人と個人の間にひとつの大きな海があるくらい、自分と他人は何かに阻まれている」という感覚が強くあって。それくらいの"通じなさ"を当時感じていたんだと思うんです。それは身近な人に対してもです。そこから「声が届かない」などキーワードを連想させていくと、人と人の間には海がまたがっているくらいの届かなさがあるなと。そこから海を連想させる作品になりました。

―この作品は、人間の言動に興味があって描いたんですか?それともひとつの事象が多角的に捉えられることの面白さを描きたかった?

人間の話にしたいと思っていました。"行動の選択以前の話"を描きたいと思っています。人は追い込まれたらこうなるみたいな話ではなく、隣り合わせにある、行動になる前の人間の感情や物語に興味があります。

それに加えて最近は"現実以上に現実的な問題"が作品の中になければと思っています。例えば前作で言うと〈不死になる〉とか「ふくしゅうげき」なら〈居場所が海になる〉とか、絶対的にフィクションなはずなのに、それが異常に現実とリンクしてくるみたいなのが演劇の面白さでもあるかなと。そのため、わざと大きな虚構性を用いて、あえてそこから現実味を作り出そうとしています。

『ふくしゅうげき』が生まれた経緯を教えてください。

2016年は僕的には自分のキャリアにとってとても意味のある年でした。北九州芸術劇場の劇トツで『おはなし(2016.3)』が優勝、『リビング(2016.4)』も手応えがあり、『ラッパー(2016.9)』も反響よく、モノレール公演『はなれても、燈(2016.)』初演の年だったんです。成果が出た感覚がありました。じゃあ2017年『ふくしゅうげき』に照準合わせて作品を作ろうってなったときに、一度自分の問題意識から作品を立ち上げて作ってみてもいいんじゃないかという話になりました。言葉にならない自分の中にあった感覚を、ひとつずつ丁寧に言語化しながら物語を作って、あの作品が生まれました。

「生きていく上で逃れようのない寂しさ」みたいなものはずっとエゴナクの中でのテーマでした。孤独とはちょっと違うけど「戻れない、どうしようもない」という、僕が元々持っていた感覚が近年作品に濃く出てきている気がします。その感覚は偶然なのか世の中でも、社会の風潮として色濃くなっていると感じます。

最近のエゴナク作品には、物語の結末がいい意味であまりなく不思議な浮遊感が残ります。穴迫さんは物語の結末のあり方に対してどう考えていますか?

演劇って2時間あるとはいえ"瞬間"のことでしかないと思っています。物語の結末や起きたことに固執するより、演劇自体の「始まって終わる」というそのパッケージに今は興味があります。

お芝居は「始まったら終わる」。登場人物の気持ちもいつか始まって、どんなに切なくても辛くても必ず終わる。時間が決められている演劇の表現形態だからこそ、どんな物語でも僕らは希望を持てる。繰り返し観たいと思っても限られるし、同じ様には再現されない。そういった演劇という媒体/パッケージ自体が希望的だなと思うので、僕は物語にあんまり希望を含ませなくても、例えばそれが深刻に終わっても全然いいと思っています。

穴迫さんの話を聞いていて特徴的だなと思うのは「作品」のことを考えるというより、そこからすこんと抜けて「演劇」で何ができるのか、「演劇」に強く意識が向いている気がします。

これ実は昨年のテーマだったのですが、最近は意識的に"上演"を考えるようにしています。作品を考えることと、上演を考えることは別物だと思っていて、僕は"上演"のクオリティや意味内容のほうを大事にしたいです。

上演とは具体的には"空間と時間"です。『訪れないヒのために』は意識して、できるだけ空間を制御する意識で作りました。もうひとつは観ている時間です。演劇は始まって終わること自体が一番ドラマチックでなきゃいけないと思っているので、作品そのものはそれを際立たせるものにしたいという感覚があります。そう考えると『訪れないヒのために』の前半は、本当にただただ時間が経ってるだけなんです。反対に『ふくしゅうげき』は物語が展開的じゃないですか。今の感覚で作り直すとするともっとシンプルになるのかなとか思ったりしています。

最近のエゴナクは画角がはっきりしている印象があります。

「ふくしゅうげき」の初演くらいから本格的な振付を作品に取り入れたいと思うようになり、ダンサーの吉元良太くんとここ一年近く一緒に創作をしています。その中で気付いたのは、僕は表層に興味があるというより単純に"どう見えてるか"が気になるタイプみたいです。最終的には表層的なことだったとしても、それがおもしろければいいっていう感覚なんです。

もちろん「見えないものを見る」という演劇的な遊びや仕掛けも好きですし、目に見えないことがやりとりされてることや、コミュニケーションのズレの面白さなんかも描いてきてるんですけど、そういうこともやっぱり表層化されないことには始まらないというか。

言葉の選び方や句読点の打ち方、リズムの波もそうですがエゴナクの作品は年々、言葉も特徴的になってきている気がします。

そうですね。それは2016年ぐらいからのルールだと思います。昨年の作品はさらに強くなってきてます。『訪れないヒのために』は特にはっきり出てますよね。ブレスのタイミングとか。あの時は言葉のイントネーションや声の強弱も稽古のときに細かく指示を出しました。

僕の中では純粋にリズムと音楽的な感覚で決めています。この演出をするきっかけは2015年の『ラッパー』が最初でした。ラップの作品って話してないときも、後ろでずっとビートが流れているんですね。文章を書くときの句読点で台詞を書いてもあんまりリズムが出ないんです。だったらもういっそのこと台詞も「ここでこう区切ってください」って最初から指定しちゃった方が早いかなと。また、ルールが"細かければ細かい"ほど"作品の濃度"があがると感じています。なので演出のときは"ルールは少なく・細かく"しています。

初演と出演者は変わりますか?

3人変わります。
隠塚詩織さん(万能グローブガラパゴスダイナモス)、阿比留丈智くん(劇団チャリT企画)、木村健二さん(飛ぶ劇場)に新しくご出演頂きます。

エゴナクの作品は毎公演ごとに新しい人を入れることを意図的に行っています。新しい俳優さんとやると心も身体もざわざわしますよね。その感覚は稽古場に必要なものだと感じます。俳優と劇団が出逢ったり、俳優同士を出逢わせたりと、作品を生み出す側の刺激はもちろん、作品の中に"調和しきらない感じ"がどこかであったほうがいいと僕は思っています。

東京公演に向けて

昨年4月の京都での再演の際、作品そのものが大きくステップアップした感覚がありました。初演とは劇場のサイズも違って、小屋入り2日目までは本当にピントが合わなくて辛かったんです。でも3日目のランスルーで急にはまったんです。「あれ?面白い・・!」って。いい意味で違和感が取れて、全てが噛み合ったというか、作品が"上演"に成って、すごく良かったんです。あ、いけるかもと思ったらお客さんの反響も良くて。はじめて一緒に作品を作るメンバーだからこその、非調和の中の調和が突然来たのかもしれませんね。

東京公演でもう一段新しいステージへ作品がステップアップするといいなと思っています。どんな作品に進化するか僕自身楽しみですし、観客の皆さんにもぜひ楽しんでほしいです。


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