「哲が句」を語る 「はじまり」について③ 人間は素粒子か
今回の記事は荒唐無稽です。おそらくほとんどの方はそうお感じになるでしょう。SFに近い、あるいはSFにもなっていないかもしれません。もっとも、私自身にとって、哲学とSFの間の境目はあいまいです。ともあれ、その辺をお含みの上お読みください。
第二の革命、「自分革命 はじまりの誕生」を考えたときの思考の順番は、これまで記事に書いたのとはだいぶ違っていた。
人間世界ではいろいろなことが始まったり終わったりしている。概して、始めるのは易く終えるのが難い。若いころからそんなことをなんとなく考えていた。
なぜ終え方が難しいのだろうか、などと考えたこともあった。
やがて一歩下がって、はじまりとかおわりとかいうものは何なのかを考えると、それが人間の見方に由来するものであって、相対的なものでしかない、と思い至るのはさほど手間のかかることではなかった。
さらにさかのぼって考えることで、「はじまり」の淵源が「生物」と「生命」の分岐点、あるいは「生殖細胞」と「体細胞」の分岐点にあると気づいたのは割合に最近のことであった。
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note参照。
私はよく、自分の考えを人様に説明するとしたら、どんな話をするだろう、と想像する。この「はじまりの誕生」について話すとしたら、どんな風に切り出すだろうか、と。
その時に思いついた問いが「世界に始まって終わるものは何があるか」というものだった。その問いから始めて、はじまりやおわりの相対性を説いていく、そんな風に考えた。
ところがその問いを改めて自問してみることで気づいたのが「素粒子」だった。
「哲が句」を語る 「はじまり」について① 始まって終わるもの|ego-saito|note参照。
「素粒子にははじまりやおわりがあるのではないか。」
さて、その素粒子の話の前に、ひとつ述べておきたいことがある。
だが今から述べることはだいぶ込み入っている。私自身、よく分からないのだが、たぶん論理的に破綻している可能性がある。あるいは頭のよい人なら、どこに論理的な問題点があるのか見抜けることなのかもしれない。もしも頭がこんがらがったら、申し訳ないがあきらめていただきたい。そもそもどう言ったらいいのか、うまく述べられるかどうかもよく分からない。
私が考えた「はじまりの誕生」の話は、次のような流れになっている。
私はまず、はじまりとかおわりとかいうものは、どれも相対的なものでしかない、と考えた。
次に、はじまりとかおわりとは何であり、どこから来たのかを考えた。
その結果、「生命」がおわりとしての死を生み出し、それに伴ってはじまりが誕生した、ということに思い至った。
だが、前提に戻ってみよう。はじまりやおわりがすべて相対的なものであるならば、生命のはじまりやおわりというものも相対的なものにすぎない。本来なら生命のはじまりやおわりだけを特別扱いするのはおかしい。
ところがそこに込み入った事情がある。
はじまりやおわりが、人間の事情で区切ったものでしかないのならば、それによって区切られたものもそれ自身が世界にあるのではなく、人間が区切り出したものだということになる。そのことが生命の生や死にも該当するなら、人間が生まれたり死んだりするのも、人間が区切ったものであり、人間というあり方自体、人間が区切り出したものということになる。
ちょっと待て。
人間によって区切られた人間というものが、人間自身を区切っている!?
さてさて、この込み入った事情は、いまここでこれ以上解明するのは難しそうだ。
たぶん、これと類似の込み入った事情は、結構そこかしこにある気がする。
加えて、この込み入った問題の根幹を解消するのに、今回のこの事例が、必ずしも最もふさわしいものではないかもしれない。
(むしろ、この込み入った事情こそが、実は世界そのものを支えているのではないか。)
そこでここでは、「支えられているものが支えているもの自体を支えている」という事情の場合、ひとまず特例を認めよう、ということで話を先に進めることとしたい。
すなわち、「はじまりの誕生」に関していうと、「生物」から「生命」が分岐してできた「はじまり」は、人間が区切ったものとは考えないこととする。
話の筋道からすれば、「生命」というあり方がまずあって、それによって人間が、ものごとにはじまりやおわりという区切りをつけているということは、人間の区切りに関わらず「生命」というあり方そのものはあるということだ。そのあり方が、人間の発想から見ると始まって終わるように見える、ということなのか。ある意味で人間の発想を超えているあり方なのかもしれない。
ここでようやく「素粒子」の話に戻ってくる。
素粒子には、やはり、はじまりやおわりがあるように見える。
「生命」のはじまりやおわりがなぜ誕生したのか、その原因に考えを向けてみているうちに、いたずらっぽい発想が浮かんだ。
「それが素粒子ではないか」
生命、あるいは我々人間自身が、素粒子の振る舞いによるものであると考えたらどうか。
世界に始まって終わるものがあるように見えるのは、自身が始まって終わるものであるところの人間(生命)がそのように見るからでしかない。世界に始まって終わるものがあるのではなく、本当に始まったり終わったりするのは人間(生命)だけだ。
でも、素粒子は始まって終わるように見える。それも人間がそのように見るからなのか。
それはさすがにちょっと違うようにも思える。
ならば、はじまりやおわりは人間にしかないというのは間違いなのか。
いやいや、究極の解決策がある。
宇宙の中で、真にはじまりやおわりがあるのは素粒子なのだ。
そして、人間はその素粒子の仲間なのである!
生命、あるいは我々人間自身が、素粒子の振る舞いによるものであると考えると、実に八方丸く収まる、という訳だ。
素粒子にもいろいろな種類がある。
「物質を作る物質粒子」
「力を伝えるゲージ粒子」
「質量を与えるヒッグス粒子」
その3つに大別されるそうだ。(ネットより)
これらの粒子の寿命はとんでもなく違っている。10のマイナス20何乗秒というやつから、ほぼ無限に長いものまである。それでもみな素粒子の仲間だ。
その中に、100年程度の寿命の人間、あるいは多細胞生物の生命が混じっていてもおかしくはない。
ただし、上の3種類のどれかに属しているとは思えない。
「関係を紡ぐ生命粒子」
そんな4種類目があるのではないか、それが本記事の妄想だ。
実のところ、自分でもどこまで本気なのか、わかっておりません。
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