「哲が句」を語る 私であること

私は
私が私であることを
誰かに告げることなしに
私であることができるか

        2024.5.18

これは問いの形ではあるが、もちろん、ただの問いではありません。
「できるか」は「恐らくできない」を含意しているが、「できない」と主張するほどに考えが固まっておらず、「恐らくできない」であろうことをさらに考えたい、考えるべきだ、ということを投げかけているものです。
あるいは、「できない」ということを、誰かが明らかにしてくれることを期待している、という面もあります。
そして、この哲が句の趣旨は、私というものは「誰かに告げなければ」成立しないものだ、ということであり、「私とは何か」という問いを一歩進めたものです。
「誰かに告げる」とは、「ことばで表す」ということにかなり近い意味です。
つまり、私とは「ことば」で表現することなしに成立することは考えにくい、という意味になります。
ただし、「誰かに告げる」の意味するものはもっと広く考えるべきです。
たとえば、「あいさつ」なども含まれると考えるべきです。あいさつは必ずしもことばで交わす必要はありません。「あいさつ」をすることは「私が私であることを誰かに告げる」ことに極めて近いと思います。

ちなみに、「あいさつ」は、ほぼすべての人々が疑いなしに勧めるものですが、あまりに無思慮にあいさつを勧めることには慎重にあるべきだと、私は考えます。
「あいさつ」が含意するものはそれほど軽いものではなく、これを奨励することは思いのほか大きな背景を持っていると考えます。
はっきり言えば「宇宙の陰謀」の先兵です。
そういう意味で、だいぶ以前にあいさつを疑問視、あるいは否定するべく論を構築しようと試みたことがありましたが、力及ばす断念したことがあります。


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