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【挫折と読書倶楽部】都会のトム&ソーヤ(1) (感想文)

4/20(土)、不登校ラボで「挫折と読書倶楽部」の第1回があった。
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以下、課題図書『都会のトム&ソーヤ(1)』の感想文です。

 著者の方に会ってから本を読む、というのはこれが初めてだ。幸運にもはやみねかおるさんにお会いする機会を得たのは1年前のことである。その時の感想文?体験記?は本体の不登校新聞と不登校ラボ両方に掲載された。

 恥ずかしながら一度も本を読んだことのないのに取材へ同行した。そして存分にはやみねさんの空気を浴びた一年後、読書会の課題図書として満を持して登場したのである。
 今回が初めてということは、昨年の取材直後に体験記を書いたにも関わらず、1年経っても読んでいなかったということである。盛り上がって知り合いにしか見せない文章を書いておきながらスルーし続けている状態は、側から見ると意味不明だろう。私にもよくわかっていなかった。最近は少し理解できてきたから、この文中で流れが来たらここで消化する。

 この感想文での大きなテーマは2つ。1つ目は、前半と後半の色の違い。2つ目は、はやみねさんから私が受け取ったもの。
 1つ目から。この作品は前半と後半で全く違う顔を持っている。前半は緻密にぎゅっとイベントと思想が詰め込まれている。対して後半は「こういうものが書きたいんだ」という気持ちで自由に書かれた児童書の皮を被ったミステリ小説という感じ。
 読書会ではやみねファンの方が「前半と後半どちらが好きですか?」という質問を持ってきた。前回のメモを見ると明らかだが、私は前半が圧倒的に好きだった。ところが、はやみねファンとしては「前半はいつものはやみねさんじゃなくて、後半こそはやみねさん」とのことだった(1か月前の記憶だから少し違うかも)。
 これを受けて気が付いたのは、やっぱりいつもと違う変な読み方をしていたんだな、ということ。私はお会いしたはやみねかおるさんの影を追いかけながらこの本を読んだ。子どもたちへ、読者へ向けられた対話するような文章を深く落とし込んで、小説としての文章をさらっと読み進めてしまった。前半と後半、どちらが好きか別れたのはそういうところだと思う。もともとはやみね作品のファンであれば、いつもはやみねさんが書きたいと思って自然に書いているのは後半部分でそちらが好み。逆に前半は作品の説明というか、この本を通じてのメッセージ性を明確に提示していて、慣れていない人・作者の人格を推し量るような読み方をしている人はそちらが好み。
 私もいつもであればそんなことは考えずに小説として、エンタメとして読むのだけど、今回は違う。作者と対話するような気持ちで読んでいた。そうなると、はやみねさんが明確にこちらを向いてわかりやすく説明してくれている前半が好み、後半は何か好きなように行動されているのを傍観しているような、若干の疎外感を覚える。たぶん企画書的なのは前半、本当に書きたくてエンタメしているのは後半。勝手に疎外感を覚えてもったいないことをしてしまった。反省。

 2つ目、この本を通じて改めて受け取ったものの話。この本の特に前半部分、なんというか言葉の端々からはやみねさんが顔を出してくるのだ。「苦労してほしい」、「冒険してほしい」、「よく考えろ」、こういうメッセージが詰め込まれていて、たぶん小説はずっと冒険して苦労しておもしろいと思うものを見つけたり見つけようとしたりしながら進む。楽な道ばっかり進んでいると物事の、それに自分の本質も見えてこない。そんな人生で良いのかい?と投げかけられているようだ。既製品とか誰かが準備してくれた攻略ルートなんて辿ってないで、自分で身に着けた知識を事象に応用して、知恵を使ってみろ。

 とんだ勘違いかもしれないけれど、この物語が都会に設定された理由がわかった気がする。はやみねさん、自分の冒険エピソードを話すたびに、周りから「その時代ならではですね」とか「そういう環境ならではですね」と飽きるほど言われてきたんじゃないだろうか。インタビューで聞いた「折れたスコップから木でできた柄を外すために燃やした(柄の部分だけ燃えるから、残った部分に新しい柄を挿し直せば使える)」とかは、まあ確かに今の時代、都会で気軽にできることでは無いけれど。でも今の時代に都会でできるかどうかという話をしているわけじゃない。
 今の時代、インターネットを辿ればたいていのことは答えらしきものが出てくる。たいていの便利グッズは既に世の中で売っていて、買ってしまえば解決する。その時間で何かやりたいことがあるならば、それで良いのだろう。
 けれども便利で効率良くタスクをこなした先で、その余暇すらも正解らしきものを追いかけてしまう。映画を見てすぐにレビューやら解説ページを見に行ってしまうとか、誰かが教えてくれる効率的な回り方を見てディズニーに行くとか。映画を見て感じたことなんて人それぞれ違うのに。効率的に回る以上に楽しめる方法なんていくらでもあるのに。楽をし続けていくと空っぽで、ただただ「あなたはすごいね」と言い続けるボットになり果てる。
 空っぽになっていくと、検索しても見つからないものは手にすることができないと思い込む。数年前の私はそうだった。服とか靴とかサイズに合うものが無くて、一生大きいものを着ていくものだと思い込んでいた。
 でも少し視野を広げればわかる。メンズが無いならレディースを探せば良い。レディースだとデザインが好きじゃないなら、オーダーすればよい。今のところオーダーまでしかいってないけど、パーツを買って自分で組み上げても良い。自分の視界に入っていないだけで、それっぽいものはやっぱり世の中に出回っているし、気に入るものが無いなら自分で作ることができる。そこには時間とお金のコストがかかることが大半だけど、物を買う以外の経験が手に入る。その経験は必ず財産になる、とまでは言わないけれど。それでも選択肢は確実に増えるし、作る楽しみを覚えていく。

 きっとはやみねさんはすごいねと言われ飽きたのだ。他人事みたいに、自分とは違う人種だと割り切った言われ方をされ続けて、少なからず疲れたのだと思う。だから、あなたにもできるのだと舞台設定を都会にした。環境のせいにする言い訳を封じた。
 講演会やサイン会で見せると言っていた、小瓶に木の棒とナットが入っているあれ。写真付きで説明しているものを見つけた。


 インタビューでかけられた「作ってみればわかりますよ」という言葉に、1年前よりも重みを覚えている。挑戦状であると同時に、少しでもこっち側に来てほしい、メッセージを受け取ったことを見せてほしいという願いが乗っているように感じてしまう。
 私はたぶん、少しは受け取れたのだと思う。インタビューの直後に感想文を出してみて、最近は自分で本を作って文学フリマに出てみて。表紙に使いたい画像が無いなら自分で被写体から作ってしまおうとしたり、良いフォントが無いから図形を組み合わせて作ってみたり。はやみねさんの言う冒険に近いことを、きっと少しずつ実践できている。
 あと何度か作ったらお渡ししたいと思えるような手土産ができてくるだろう。その時は挑戦状の回答としてお渡ししよう。実際に会えなくても、ファンレターとしてお送りしよう。少なくとも私の「冒険する心」に火を付けたことを伝えるために。
 うーん、やっぱりはやみねさん好きだな。


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