【挫折と読書倶楽部】宇宙のみなしご(感想文?)
3/9(土)、不登校ラボで「挫折と読書倶楽部」の第0回があった。
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読書会で自分がどう考えているのか気付いたことも込みで感想文を書いた。
数時間前(これを書き切った時点では、投稿とはずれてるかも)、読書会に向けてばーっと書いたメモもまとめている。
文章に拾いきれなかったこともあるのでお時間あればこちらもどうぞ。
『宇宙のみなしご』はエネルギーの使い所を模索する話だと思う。誰と何をするのが自分の幸せになるのか、人生に対して誠実であろうとする力が何をもたらすのか。
この本を読んで、私はそういうことを考えている。いや普段から考えているから、それっぽい部分を拾っているのかもしれないが。
主人公の陽子は幼稚で大人びている。千人の小人が体の中で熱を発する衝動を持ちながら、大人の嘘に付き合って流す立ち回りもできる。ただの子どもではなく、成熟した大人でもない。中学生にしては大人びているけれど、自分の熱に責任を持たなくても、理由を探さなくても良い安全圏にいる。
両親との関係性は明らかに良好で、弟ともすこぶる仲が良い。面倒な友人関係はほとんど無いし、ダメな彼氏に惑わされてもいない。
大人に労働の義務があるように、子どもには教育を受ける権利がある。そう、義務があるのは大人であって(教育を受けさせる義務)、子どもには権利だけがある。けれどもこの両親はそう思っていないし、陽子も100%そうは思っていないだろう。
働かざる者食うべからず。この家で共同生活をする上で、彼女たちが自分たちで築いた関係値だ。大人として扱われるために、その信頼に応えるために、自分なりの労働をこなしている。
それはお金を稼いでくることであったり、教育を受けることであったり、家事をすることであったり。きっと本気でストリートミュージックや動画投稿に本気で取り組むのなら、それが軌道に乗っていないとしても労働と認めるだろう。それが経済的にも人間関係的にも安全圏にいるということだ。
けれども安全圏はいつか崩れていく。数年経って高校生、大学生くらいの年齢になってくると少しずつ変わりだす。教育を受けるには自分で権利を行使するか、保護者から義務的な指示を受けねばならない。なぜなら高校から先は義務教育ではないからだ。
学校に通わないならば、権利を行使する立場から義務を負う立場へ変わる。特例はあるにしろ、世間的にはそうなると思っている。
自ら教育権を使う時、あるいは労働の責任を果たす時、陽子は小人たちの発する熱に無関心でいられるだろうか。
私は5年前の3月21日、大きな失意の中にいた。前日は大学の卒業式で、その後人生で初めて朝まで飲み屋にいた。
19時くらいから1対1で話したゼミ仲間は、私とは全く違う人生を歩んでいた。どこまでも真っ直ぐに自分の欲求と向き合って、不向きと興味の板挟みに抗っていた。そこそこ適当な理由で大学のレールに乗り、適当な理由で就職先を決めた私には、それが眩し過ぎたのだ。一週間ほど酷く落ち込んだ。
幸いにも仕事への適正はあった。比較的得意な分野ではあって、ある程度の興味と貢献しているという欲求は満たせた。できるところまでやろう。そういう意識と忙しさで失意を忘れることができた。一時は悩める友人に「『やりたいこと』より『できること』を仕事にした方が良い。私の場合はそうだった」と講釈を垂れるほどには馴染んでいた。
けれどもそれは長続きしなかった。
昨年から私の熱は暴走を始めている。
会社勤めを辞めて起業した知り合いができた。
自分の意志を貫いて普通の就職をしないことに決めた友人がいる。
文学フリマというものに出ることに決めた。独力で文章を書き表紙を作って印刷所に依頼して、作品を作った。そういう人たちが大勢いる空間に飛び込んだ。
朝起き上がれずに会社へ休む電話を入れる間も、胸に潜む熱はうねりを上げる。なんとか出勤してPCに向かっている時も、40分ごとにむずむずしてくる。
やりたいことができなかった日には眠りに入るクールダウンを邪魔しにかかる。
働かなければお金を稼げず、生きていけない。自分の気持ちに沿ったお金の稼ぎ方を考えてこなかった。
無関心でいた代償を今支払っている。
同時に、自覚した喜びも享受している。
私の孤独を埋めるものがわかったのだ。
どうしようもなく埋まらない寂しさは、同族に認めてもらうことで癒される。誘った何某かに乗り合ってもらうことで暖かさが増幅する。誘ってもらったあれこれが、確かな灯りを示している。
私たちの孤独の正体は、平たく言ってしまえば承認欲求なのだと思う。うっかりすると、それが無防備な身体を宇宙空間へと放り出してしまう。寒くて暗くて、誰もいないところに。
そこで光るものに、熱を発するものに近づくこと。それが身を守ることになる。だだっ広い宇宙空間では、そう気付いた人がそれなりに浮かんでいるんだろう。熱を発する人が同じく熱を発する人を呼んで、少しずつ孤独が晴れていく。
あちらを見て近づくばかりでなく、あちらからも見つけてもらうには、これは自分も光るしかない。どうしたら光るのかといえば、それは熱を発すること。自分が熱を、正しくエネルギーを発揮できることへ誠実に使っていくことだ。
それは屋根に登ることかもしれないし、良いトイレを探すことなのかもしれない。そういうことに熱を感じたのなら、なぜ熱を感じたのか考えてみると良い。きっと同じ事象が好きな人もいれば、同じ方向性が好きな人もいる。たぶん、方向性が同じ人の方が自分に合った光と熱を持っている。
みなしごは「身無子」、あるいは当字で「孤児」と書く。身寄りの無い子であるが、漢字だけならば身の無い子(=空っぽの子)とも取れる。
この作品は彼女が空っぽで孤独な人生を歩むかどうか、その大きな転換点が描かれている。小人たちの発する熱を大切に使っていくか、抑え込んで空っぽになってしまうか、その転換点なのだと思う。
あと、陽子って宇宙において光と熱を放つ恒星(=太陽)ってことですよね?
随所に出てくる温度感の表現がとても素敵でした
本を読んで書きたくなった文章をまとめています。
気が向いたらこちらもどうぞ。