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わたしの方こそごめんね

「強くなるしかなかったよね。ごめんね。」
そう言ってわたしの頭を少しの力で撫でた母。

わたしは幼い頃から気が強くて逞しくて物怖じしない
性格だった。人見知りもせず、明るく気丈なように
周りから思われていると思うし自分でもそう思っている。
けれど、
たしかにプレッシャーにはすごく弱いし、
他人が気にも留めないことで悩み、
ご飯も喉を通らなかったりする。
自他との区別が自分の中ではっきりつかず、
他人に感情移入しすぎて立っていられなくなりそうなことも
ある。

母親はそんなわたしの弱さをもちろん知っている。

けれど、わたしが生まれてすぐからフルタイムで仕事をし、
土日も休みなく働いていた母はわたしが悩んでいる時も
それを何となく察しながらも寄り添う余裕なんてなかった
のだと思う。
わたしも、弟たちにも手を取られることが分かっていたし
できる限り自分のことは自分でやろうとした。
自然と、わたしはしっかりするしかなかった。
それを全く嫌だともストレスだとも思ったことはないけれど
母から見たらそんなわたしの姿が
痛々しかったのかもしれない。

わたしの保育園の卒園アルバムを
大人になってから見つけた。
保護者からのメッセージの欄があり、友達のページには
「卒園おめでとう!小学校もがんばろうね!」などと、
晴れやかな内容が書かれていた。

わたしのページだけ、全く別物だった。
わたしに対する、母からの謝罪文だった。

「もっと一緒に過ごすべきだろうと悩みながらも
 あっという間に6年が過ぎてしまいました。
 一緒に過ごす時間が少なくて本当にごめんね。」

こんなようなことが書いてあった。
そんな罪悪感を持ってわたしを育ててくれたのだと
苦しくなった。

小学校に入っても、両親は仕事で土日に家にいることは
まずなかった。
わたしにとっては普通のことだったけれど、
土日に家族と出かけている友達は少し羨ましかったのかも
しれない。
それでも、年に一度は旅行に連れて行ってくれたし
両親はせめてもと平日の水曜日に休みを合わせ、
学校から帰ってくるわたしと弟を水曜日だけは家で
待っていてくれたし、
なに不自由なく過ごしていたわたしはすごく幸せだった
のだと思う。
中学生になると、土日は歳の離れた弟の世話をすることが
多くなった。「ごめんね。なるべく早く帰るから」
と仕事に行く母を「なんで謝るんだろう」と不思議に
思って送り出していた記憶がある。

ただ一度、弟に朝ごはんを用意した時のこと。
パンを出すと、「おにぎりがいい!」と泣かれた。
おにぎりを色々なふりかけを使って何種類か作り、
食べやすいように小さく丸めて出すと、
初めは「かわいい!」と食べ始めたが、
ほとんど手を付けずに「もういらない!」とお菓子を
食べ出した日のこと。
「もう少し食べて!」と怒ると
わたしが作ったおにぎりを投げて反抗した。
『部活の日程ずらしてまで
この子の世話をしてあげてるのに』と悲しくて
涙が出てきたことがある。
けれど、家にはわたしと幼い弟だけ。
母が帰ってくる夕方まではちゃんと見てあげなきゃいけない。そんな思いで我慢した。こんな小さい子相手に
自分はなにを悲しんでいるんだと自分を鼓舞したけれど、
その日は母が帰って来て母の顔を見ると涙が止まらなかった。幼い弟は激しく怒られていたな。笑

きっとわたしも覚えていない、そういう出来事が
何度もあり、それが母にとってはすごく苦しかったの
だろうと今になって思う。

社会人なって地元を離れ、保育士という職に就いてからは
一層母のありがたみが分かる。
母の日に感謝を伝えると、

「なんにも心配いらない子に育ったね。
 いつの間にこんなに立派になったんだろう。
 強くなるしかなかったよね。ごめんね。」と。

まただ。卒園アルバムと同じ。

でも今回はちゃんと言えた。
「なんで一緒にいてくれないの?
 なんて一度も思ったことなかったよ。
 ごめんねなんて言われるようなこと、
 なに一つされてないよ」そう答えることができた。

普段クールで竹を割ったような性格の母だけれど、
その時だけは目に涙を溜めていて、溢れるものがあった。
きっとこれが長年わたしから聞きたかった言葉だろうな
とすぐに分かった。

その日からせめてもと母との時間を大切にするために、
帰省の頻度を上げている。
そうしたらしたで、「また帰って来たの?笑」と
笑われるのだけれど。

これからもたくさん一緒にいようねと
マザコンのわたしは勝手に思っているし。
ごめんねよりもこれからを考えようね。

わたしの一番尊敬するたった一人のママとのお話。


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