「やりたいこと」と「できること」

「やりたいこと」と「できること」は時に違う事がある―

それがこの回のテーマだ。
偉そうなことを言ってきたが、私はまだ24歳と余裕で若者というくくりの中に入る人間だ。当然、改良すべき点や失敗も多い。
最近、新しいアルバイトの女の子が入ってきた。だが、そこまで早くなく、指示も聞いているのだが実行に移せない。そこで「あの子は使えないのではないか」という声が、パートさんから入ってきた。一理ある。だが、前述した通り今の職場では割とボス扱いされている私はずっと彼女を観察していて、その癖を探ろうと努力していた。その結果、「あまり圧力を与えないほうがいいし、慣れるのに時間がかかる」と踏んだ。他の同僚には、「スピード感はない」と現実を認めつつも、ネガティブな発言は避けた。

するとある日、自分達を監督していた男性社員が、「えふちゃんだけにあれこれさせるのはよくない」ということで、私を彼女のつきっきりのポジションから外した。大丈夫か?と思い心配になったが、不思議なことに非常に肩の荷が下りる感じがあるのを感じた。社員の言う事は尤もで、リーダーでもないのに「リーダーっぽい」からという理由で私に荷を負わせすぎるのは筋ではないと判断したための発言だった。普段は頓珍漢な発言が多い社員なのだが、意外としっかりしている部分もあるものだ、と上から目線ではあるが思った。

「同じ条件で雇っている以上、彼女にもやってもらわなければならない」

と語気を強めた社員に対し、「あまり強く言わないように」とやんわりくぎを刺した。とはいえ、自分の中で気づきがあった。自分はいつの間にか、「できる範囲を超えていた」ということである。冒頭で、自分の能力の限界を考慮する事を主張した。実際、自分の体力の無さや能力の低さというものから割り出した立場が今の立場となる。しかし、その中で力を持った時、つい自分の経験や持っている能力(低いとは言ったが、勿論何もないわけではない)を過信し、キャパシティ以上の事をしようとしていた可能性があると思った。

自分は人に教えたり監督したりすることが嫌いではない。むしろ好きだ。だが、冒頭のテーマにしたようにそれは私が「やりたいこと」ではあるが、現実的に「できること」ではなかった。というより、今置かれた立場では「やるべきこと」ではなかった。もっと割り切ってやってもよかったのである。

野球少年の中には、「プロ野球選手になりたい」と言いつつも、現実は甘くなく別の職業の道を選んだ、という人も多いだろう。これは、「やりたいこと」と「できること」が違うわかりやすい例だ。さらに深堀りすると、『やりたいこと』と『できること』と『向いていること』と『するべきこと』とか、仕事にはなにかと種類がある。少し哲学的にも聞こえるかもしれないが、いくつかの例をあげて考えてみよう。

やりたいけどできることではなかった、というのは先ほど述べた諦めた野球少年の話だ。
しかし、難しいものでやりたいし、できるけど向いていないというパターンもある。
私は元中日監督の落合博満さんが好きで、よく図書館で彼の本を読むことがある。選手として三冠王、監督としても何度も優勝し、在任期間で上位に入らなかった年はないという実力者だ。だが、彼はもともとボウリングの道で食べていこうとしていた。野球が好きで野球部に入ったが、体育会系の風土に馴染めず、何度も退部している。だが、能力が高かったので試合のあるたびに呼び戻されていたという。彼が学生だった頃は軍隊的な気風が今より強かっただろうから予想はつくが、「やりたいことをできる力があったけど向いていなかった」という例と私の中では定義できる。向いていないという事が当てはまる場合は、環境要因が大きいかもしれない。
同じく、故野村克也さんも監督として名将とされるプロ野球のレジェンドだが、ヤクルトの時は日本一にもなれたのに阪神では良い成績を残せなかった。これも、詳しくは省くが環境要因が大きかったと思われる。彼も間違いなく実力はあったが、環境がまずかった。

もう一つ、「するべきでなかった」事をしたために失敗した人物もいる。難しい言葉を使えば、僭越、ということだ。
これに関してはみなさんも想像しやすいかもしれない。今回の私のようにいつのまにかキャパシティを超えて辛くなるというケースだ。自らの領分をわきまえずに行動してしまう事によって、現場のパワーバランスもしくは自分自身のパワーバランスが崩れる。これも、あまりよくないケースだと思う。

いかがだっただろうか。こうやって深掘りすると、仕事とは複雑なものだ、と思うかもしれないが、安心していただきたい。複雑なのは私の思考だ。大体、どれも完璧なバランスで働いている人間などいない。いたとしたら世渡りの天才だ。多くの人はそこまで考えて仕事をしていない。だが、コロナウイルスの流行真っ只中の今の情勢でパニックに陥り、識者の意見に振り回されている人々を見ると、病気の事、仕事の事に限らずもう少し「自分の頭で考える」ということをやってほしいという願いが湧くのは、私のような人間のさがなのである。
そして、このエッセイのタイトルは「虚弱体質の生存戦略」だ。力のないものが巧みに生き残る方法を書いているつもりだ。つまり、上記の4項目のバランスをうまく保とうとすることが、弱者にとっての生き残るための良いアドバイスになるということを、筆者はある程度信じている。

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