入祭唱 "Lux fulgebit hodie super nos" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ17)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 44; GRADUALE NOVUM I p. 24.
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更新履歴
2023年1月29日 (日本時間30日)
全面的に改訂した。その中で「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部を新設したが,特に後者は (この入祭唱アンティフォナのテキストの成り立ちが単純ではないだけに) 大きな追加情報となっている。
2018年12月23日 (日本時間24日)
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【教会の典礼における使用機会】
昔も今も,主の降誕の祭日 (12月25日) の「早朝のミサ (Missa in aurora)」で歌われる。日本のカトリック教会の公式用語に従って「早朝の」と書いたが,"aurora" は「東雲」「曙」くらいを指す語らしい。つまり早朝といっても夜が明けた後ではなく,ちょうど夜が明けるころのことである。
このミサは伝統的には降誕祭第2ミサと呼ばれ (なぜ第「2」なのか疑問をお持ちになった方はこちらをお読みいただきたい),朗読される福音書箇所 (ルカによる福音書第2章第15–20節) の内容から羊飼いミサとも呼ばれる。
1970年のORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはこれに従っている) では,この入祭唱はほかに次の機会に割り当てられている。
主の降誕の八日間 (12月25日~1月1日)。といっても12月25~28日と1月1日はそれぞれ教会の祭日や祝日であり固有の式文をもつので,この用語で実質的に問題となるのは12月29~31日のみとなる。この入祭唱か "Puer natus est nobis" かの選択となっている。
「神の母聖マリア」の祭日 (1月1日)。この入祭唱か "Salve, sancta Parens" かの選択となっている。
主の公現の祭日 (原則1月6日。日本では1月2~8日にくる日曜日) 後,主の洗礼の祝日の前まで。この入祭唱か "Ecce advenit dominator Dominus" かの選択となっている。
2002年版ミサ典書では,これらのうち「主の降誕の八日間」と「主の公現の祭日後,主の洗礼の祝日の前まで」とについては,この括りでの式文の定めそのものがなく (それぞれの日の式文が個別に記されている),個別の日の式文を見てもこの入祭唱が指定されているものはない。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Lux fulgebit hodie super nos: quia natus est nobis Dominus: et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi: cuius regni non erit finis.
Ps. Dominus regnavit, decorem indutus est: indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se.
【アンティフォナ】光がきょうわれわれの上に輝きわたるであろう,なぜなら生まれてくださったからだ,私たちのために,主が。彼は呼ばれるであろう,驚嘆すべき者,神,平和の君,来るべき世界の父と。そして彼の王国には終わりがないであろう。
【詩篇唱】主は王となられ,威厳を身にまとわれた。主は力を身にまとわれ,腰帯としてお締めになった。
アンティフォナの第1文 "Lux fulgebit hodie super nos" はイザヤ書第9章第2節から取られているが,Vulgataではなくもっと古いラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latinaと総称される) によっている。"hodie (今日)" は原文にない付加要素で (そしてこれは降誕祭の典礼によく現れる重要語である),"nos (私たち)" は "vos (あなたたち)" になっているテキストもあるらしい (以上,Kohlhaas p. 288による)。
なお,近い内容の言葉がトビト記第13章第11節 (Vulgataでは第13節) にもある。
Vulgataをはじめとする昔のラテン語聖書テキストでは少し違う訳になっている ("luce splendida fulgebis et omnes fines terrae adorabunt te [輝く光でお前は照り渡り,すべての地の果て (まで) がお前を拝むであろう]") のだが,とにかく今回の入祭唱アンティフォナ同様,lux (>luce) とfulgeo, fulgere (>fulgebis) との2語が用いられている。さらに,これに続く部分がいかにもクリスマス (というより公現 [エピファニー] か) らしいのも興味深い。
アンティフォナの第2文 "quia natus est nobis Dominus" については,明らかにここが出典だという箇所はないものの,最も近いのは,
であると思う (天使が羊飼いたちに言った言葉。1つ前のミサ,すなわち主の降誕・夜半のミサ [Missa in nocte] で朗読される福音書箇所に含まれている)。ほかには,
も元テキストとして考えうる (GRADUALE ROMANUM [1974] / GRADUALE TRIPLEXやKohlhaas p. 288ではこちらが元テキストとして挙げられている)。この箇所はもちろん,主の降誕・日中のミサの入祭唱のもとでもある。
アンティフォナの第3文 "et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi" は,明確にイザヤ書第9章第6節 (ヘブライ語聖書では第5節) に基づいているが,やはりそのままではなく少し言葉が削られている。
アンティフォナの最後 "cuius regni non erit finis" に最も近いのは
であろう (受胎告知において,大天使ガブリエルがマリアに語った言葉の一部) が,イザヤ書第9章第7節 (ヘブライ語聖書では第6節) にも
という言葉がある。
詩篇唱に用いられているのは詩篇第92 (ヘブライ語聖書では第93) 篇であり (ここに掲げられているのは第1節の一部),テキストはローマ詩篇書ともVulgata=ガリア詩篇書とも少しずつ異なっている (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
Dominus regnavit decorem induit
induit Dominus fortitudinem et praecinxit se virtutem (ローマ詩篇書)Dominus regnavit decore indutus est | indutus est Dominus fortitudine et praecinxit se (Vulgata=ガリア詩篇書)
Dominus regnavit, decorem indutus est: indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se. (GRADUALE ROMANUM [1974] / GRADUALE TRIPLEX)
内容はどれもほぼ同じといってよい。
なお中世の聖歌書を見ると,Einsiedeln 121 (10世紀) で最後に "virtute(m)" があったり (つまりここはローマ詩篇書と同じ),Benevento 34 (12世紀) で "induit" になっていたり (これまたローマ詩篇書の形) と,GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEXとは少し異なるテキストが記されている。GRADUALE NOVUMは,Einsiedeln 121に合わせて最後に "virtute" を加えている。ただ,Einsiedeln 121のこの部分は母音のみで記されているため,実は "virtutem" である可能性もある。意味は結局変わらないといってよいので,あまり気にしなくてよいが。
【対訳】
【アンティフォナ】
Lux fulgebit hodie super nos:
光がきょうわれわれの上に輝きわたるであろう,
このミサが行われる時間帯について上で述べたが,夜がはっきりと明けてしまってからではこの「輝きわたるであろう」という未来時制の動詞が生きない。
quia natus est nobis Dominus:
なぜなら生まれてくださったからだ,私たちのために,主が。
自然な日本語の語順にしたもの:なぜなら,私たちのために主が生まれてくださったからだ。
降誕そのものは「夜半のミサ」で (現行「通常形式」の典礼に限り「前晩のミサ」でも) 既に起こっているので,「生まれた」と完了時制。
et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi:
そして彼は呼ばれるであろう,驚嘆すべき者,神,平和の君,来るべき世界の父と。
cuius regni non erit finis.
そして彼の王国には終わりがないであろう。
直訳:そして終わりが彼の王国のものであることはないであろう。
別の直訳:そして彼の王国の終わりはないであろう。
直訳に基づいた私なりの別訳:そして彼の王国は終わることを知らぬであろう。
「彼の王国に」というと,「王国」にあたる語 "regni" が与格なのかと思ってしまうが,そうではなく属格であり,つまり直訳すると「彼の王国の」となる。これを述語的にとったのが「直訳」,("non erit" を飛び越えて) "finis" にかかるものと解釈したのが「別の直訳」である。
なお "non erit" を飛び越えてかかるということなどありうるのかとお思いになるかもしれないが,こういうことはラテン語ではごく普通にある。ただし,これまで私が見てきた限りでは,グレゴリオ聖歌のテキストではあまり多く見られない現象である。関係代名詞 "cuius" を「そして彼の」と訳すことができる理由は逐語訳の部で説明する。
【詩篇唱】
Dominus regnavit, decorem indutus est:
主は王となられ,威厳を身にまとわれた。
indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se.
主は力を身にまとわれ,腰帯としてお締めになった。
別訳:主は強さを身にまとわれ, (……)
前述の通り,Einsiedeln 121とそれに従っているGRADUALE NOVUMでは,最後に "virtute(m) (力で/力を)" がつく。この語も入れる場合は,訳語が重複するのを避けるため,"fortitudinem" は「力を」でなく「強さを」と訳したほうがよいだろう。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
lux 光が
fulgebit 輝くだろう (動詞fulgeo, fulgereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
hodie きょう
super nos われわれの上に (nos:われわれ [対格])
quia なぜなら~から
natus est 生まれた (動詞nascor, nasciの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・3人称・単数の形)
nobis 私たちに,私たちのために (与格)
Dominus 主が
et (英:and)
vocabitur 彼は~と呼ばれるだろう (動詞voco, vocareの直説法・受動態・未来時制・3人称・単数の形)
Admirabilis 驚嘆すべき者 (主格)
形容詞の名詞化。
Deus 神 (主格)
Princeps pacis 平和の君 (princeps:君主 [主格],pacis:平和の)
Pater 父 (主格)
futuri saeculi 来るべき世界の (futuri:来るべき,saeculi:世界の)
直前の "Pater" にかかる。
"futuri" (<futurus, -a, -um) はもともと,動詞sum, esse (英語でいうbe動詞) の未来能動分詞である。「未来にある」,つまり「これから来る」,「来るべき」ということである。
cuius そして彼の (関係代名詞,単数・属格)
属格の関係代名詞であるから,文字通りには英語でいう (関係代名詞としての) whoseの意味である。それを「そして彼の」と訳せるのは,単にそのほうがこなれた訳文になるからというだけでなく,≪ラテン語の関係代名詞 [……] はしばしば文頭に来て,「et (atque) + 代名詞 [……]」の役目を果た≫すからである (小林,p. 82)。
regni 王国の (属格)
non erit ないだろう (英:there will not be) (nonは否定詞。eritは動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
主語は次の "finis"。
finis 終わりが (主格)
【詩篇唱】
Dominus 主が
regnavit 支配した,王であった,王となった (動詞regno, regnareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
decorem 威厳を,気品を,美しさを
indutus est 着た,身にまとった (動詞induo, induereの直説法・受動態 [の顔をした能動態?]・完了時制・3人称・単数の形)
これは受動態の形をしているが,能動態でも受動態でも「着る」という意味になる動詞である (少なくとも教会ラテン語では)。「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部で述べた通り,ローマ詩篇書ではここが "induit" と能動態になっているのだが,そういうわけで意味は同じだということになる。
indutus est (同上)
Dominus 主が
fortitudinem 力を,強さを,勇敢さを
et (英:and)
praecinxit 腰帯を締めた (動詞praecingo, praecingereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
この訳語だけだと分かりづらいが,「腰帯を締めた状態の」ではなく,「腰帯を締めるという動作をした」という意味である。
se 自身を
virtute 力で (奪格)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEXにはこの語はないが,GRADUALE NOVUMにはある (前述の通り,Einsiedeln 121に従ったもの)。
「力で」と言われると「力を入れて」という意味かと思ってしまうが,そうではなく「力を腰帯として締めた」ということである。ここの「力で腰帯を締めた」が前の「強さを身にまとった」と平行関係にある (言い換えである) ことからそういえる。
「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部でも述べた通り,Einsiedeln 121のこの部分は母音しか記されていないため,実は "virtutem" (対格) である可能性もある (ローマ詩篇書ではそうなっている)。といっても今回の場合,意味は結局同じだといってよい。
この語 (<virtus) には「男らしさ」「徳」といった意味もあり,むしろそちらが本来かと思うが (特に「男らしさ」は),これまでに私が訳してきた聖歌においては常に「力」の意味らしかった。
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