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コンテンツについて語れる人は面白い

今日は現実の友人と話したことについて書いていく。

僕にとって話の面白くない人は、二つの種類に大別できる。それは自分の見た映画、小説ほかにもいろいろなコンテンツについて語れない人が一つ。もう片方は使い古されて陳腐化した表現しか使えず、自分の言葉が出てこない人だ。

僕は常に後者にならないように努めている。前者に関してはわりかし自信ががある。僕は常に見たもの聞いたもの、そして考えたことについて話すようにしているからだ。

映画を見た後に、どんな話をすると楽しいだろうか。キャラについて、脚本について、出演者について、セットについてと、話す話題はいくらでもあるだろう。

そのようなコンテンツにをするのがが苦手な人には、いくつかの課題を持っているとこの間実感したのでここに書きたい。

一つ目はそもそも話の内容を理解していない人だ。洋画の苦手な友達が言うには、場面が切り替わったあとに邦画のように説明してくれることのない洋画では理解が追い付かないらしい。

有名なクリシェとして、日本人の三分の一は日本語が読めない、というものがある。これは文と文のつながりが理解しきれていないため、従属関係について読み取れないというものだ。なので二つの場面を別々の視点で映すような表現で混乱する人が出てきたりする。

一つ目の問題は根深いと僕は考えており、今僕にとってつまらないカテゴリーにいる人は実は何かしらの問題を抱えているのかもしれない。最近は教育についても明かされることが増えているので、僕のもやもやが晴れるのを待っている。

二つ目は話すほどほかのことについての経験がない問題だ。話というのは基本ほかの物事との結びつきの集合体である。脚本について語るならそのほかの映画を引き合いに出したり、自分の経験から話したりと、とにかく要求されるのは幅の広い知識と引っ張り出すための頭の回転だ。その行動を人間は無意識的に行っている。そのため少しの知識の不足や、回転数の遅れによる影響は大きい。

そんなわけで二つ目も根が深い。知識はともかく頭の回転に関してはどうしようもない気がする。少なくともビジネス書の千五百円分の知識ではどうにもならなそうだ。

上記のことから言えるのは、話のつまらなさについてこれ以上語るのはやめようという結論だ。これ以上踏み込む勇気はない。ただ自分の解決できる、知識をつけて面白くない人間にならないようにすることだけが、僕にできることである。

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