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牧野富太郎氏の植物庭園へ - まだ見ぬ祖父のことを思う幸福な帰路

先日、植物学者・牧野富太郎さんの庭園へお礼参りをしに行った。

何か願掛けをした訳ではなかったが、近ごろ私の一つの大きな夢が叶った。
富太郎さんに力をもらったおかげだという気がしてならず、深い考えもなしに自然と足が向かっていた。

練馬区牧野記念庭園と富太郎さんのこと

西武池袋線「大泉学園」駅から徒歩5分の場所にある「練馬区牧野記念庭園」。

近年NHKの連続テレビ小説「らんまん」でずいぶん有名になられたので説明するべくもないだろうが、日本の植物分類学者の父とされる牧野富太郎博士の邸宅跡地だ。

小学校を中退し、独学で植物学や関連の学問を学び、東京大学の研究室に出入りするようになったというのだから信じられない経歴だ。

私は富太郎さんの描く精緻で優しさもある植物の絵と、随筆における天才の独り言のような描写が大好きで、数年前に庭園を訪れて以来、密かにお慕いし続けている。

牧野富太郎さんの植物画(展示作品より)
牧野富太郎さんの植物画(展示作品より)

同じく敬愛するドイツの生物学者・エルンスト・ヘッケルも、研究者でありながら自分自身で生物の絵を描くが、どこか彼にも通じる妄執を感じる。

エルンスト・ヘッケルさんの植物画(Wikipediaより)
ただし、ヘッケルは忠実な描写に寄るよりも、デザイン性が強い点が異なる点だ。

赭鞭一撻に心を打たれる

展示作品より

著書と経歴ももちろんのことだが、富太郎さんをお慕いした一番の理由は、「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」という、富太郎さんが18歳~20歳の頃に作ったという勉強心得を読んだことがきっかけだった。

赭鞭とは赤く塗った鞭のことらしく、自らを鼓舞するような意味合いがあったのだろうか。

赭鞭一撻

忍耐を要す
何事においてもそうですが、植物の詳細は、ちょっと見で分かるようなものではありません。行き詰まっても、耐え忍んで研究を続けなさい。

精密を要す
観察にしても、実践にしても、比較にしても、記載文作成にしても、不明な点や不明瞭な点があるのをそのままにしてはいけない。いい加減ですますことがないように、とことんまで精密を心がけなさい。

草木の博覧を要す
植物を数多く観察しなさい。少しの植物の観察ですませてしまうと、知識も偏り不十分な成果しかあげられません。

書籍の博覧を要す
書籍は古今東西の学者の研究の結実です。できる限り多くの書を読み、自分自身の血とし肉とし、それを土台に研究しなさい。

植学に関係ある学科は皆学ぶを要す
植物学を志す場合、物理学、化学、動物学、地理学、農学、画学、文章学、数学などほかの関係分野の学問も勉強しなさい。

洋書を講ずるを要す
日本や中国の植物学よりも、西洋のほうが遥かに進んでいるので洋書を読みなさい。ただし、それは現在の時点においてそうであって、永久にそうではありません。やがては我々東洋の植物学が追い越すでしょう。

当に図画を引くを学ぶべし
学問の成果を発表する際、植物の形状や生態を描写するのに最も適した図画の技法を学びなさい。他人に描いて貰うのと、自分で描くのとでは雲泥の差です。それに加えて練られた文章の力を借りてこそ、植物について細かくはっきりと伝えられます。

宜しく師を要すべし
植物について疑問がある場合、書物だけで答えを得ることはできません。誰か先生について聞く以外に方法はありません。それも一人の先生だけではだめです。先生と仰ぐのに年の上下は関係ありません。分からないことを聞く場合、年下の者に聞いては恥だと思うようなことでは、疑問を解くことは死ぬまで不可能です。

吝財者は植学者たるを得ず
研究に必要な書籍や器機を買うにもお金が要ります。けちけちしていては植物学者になれません。

跋渉の労を厭うなかれ
植物を探して山に登り、森林に分け入り、川を渡り、沼に入り、原野を歩き廻りなさい。そうすれば新種の発見につながります。その土地にしかない植物を採集し、植物固有の生態を知ることもできます。しんどいことを避けてはだめです。

植物園を有するを要す
自分の植物園を造りなさい。遠くの珍しい植物だけでなく鑑賞植物も植えて観察しなさい。これらはきっといつか役に立つでしょう。植物園のために必要な道具ももちろん揃えておきなさい。

博く交を同志に結ぶ可し
植物を学ぶ人を求めて友人にしなさい。遠いも近いも、年令の上下も関係ありません。お互いに知識を与えあうことによって、知識の偏りを防ぎ、広い知識を身につけられます。

邇言を察するを要す
植物の呼び名、薬としての薬用など、子供や婦人や農夫らの言う、ちょっとした言葉を馬鹿にせず、彼らの言うことを観察しなさい。職業や男女、年令は植物の知識に関係ありません。

書を家とせずして、友とすべし
本は読まなければなりません。しかし、書かれていることがすべて正しい訳ではなく、間違いもあるでしょう。書かれていることを信じてばかりいては、その中に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことになり、新設をたてることも不可能となるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来に寄与することとなります。書物は自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。

造物主あるを信ずるなかれ
神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である心理の探求にとって、有神論をとることは、自然の未だ分からないことを、神の偉大な摂理であるとみてすますことにつながります。それは、真理への道をふさぐことで、自分の知識のなさを覆い隠す恥ずかしいことです。

展示作品より引用

この心得を、18歳~20歳の頃にはすでに導き出して実行していたということに衝撃を覚える。

烏滸がましいかもしれないが、32歳になった今、色々な苦悶の末にようやく導き出した自らの考え方と重なる部分もあり、足りなかったたくさんのピースを隙間なく埋めてくれるような教えでもあった。

たとえ恵まれていて周囲の環境が万全に整っていたとしても、人より飛びぬけて知能や精神年齢が高かったとしても、到底なし得ることではない。
それだけの「想い」があったのだろう、と思う。

富太郎さんのおかげで夢が叶ったと冒頭で触れたのは、この心得に感銘を受け、励まされ、自信を持って自己投資的活動を行うことができたからだ。
今日にいたっても富太郎さんがこれだけ愛されているのは、富太郎さんの言葉や図画にはそれだけの力があるからだろう。

「草木が宿る書斎」を訪れる

富太郎さんの書斎を再現した「繇條書屋(ようじょうしょおく)」も圧巻だ。

写真を元にデザイナーさんが再現し、一部の本は手描きで装丁を再現されているそうだ。

机の上には開かれたままの本があり、今にも富太郎さんがこの場に帰ってきそうだった。
細部にまで魂が宿っている。

一度空間に吸い込まれてしまうとなかなかその場から動き出せず、ずいぶん長いこと立ち尽くしていた。

庭園の植物を愛でる

季節ごとに姿を変える植物たちを愛でていく。

(別の季節に撮った写真が混ざっているかも。名前が間違っていたらごめんなさい)

ドウダンツツジ
ビワ
モチツツジ
ツワブキの種
トサミズキ

祖父のことを思った帰路

庭園を巡ったあと最後に、周囲を気にしながらこっそりと牧野富太郎さんの銅像にお辞儀し、「ありがとうございます!」と伝えた。
意味があるかはわからないが、言葉にしてみるだけで嬉しくなる自分がいた。

展示室に飾ってあった牧野富太郎さんと家族の写真はみんなが楽しそうにニッコリとしていて、きっと富太郎さんは能力者であるだけではなく、人格者でもあったのだろうと思わされる。

その写真を見ると、亡くなった祖父のことを思い出すのだ。

母方の祖父は私が生まれる前に亡くなったので会ったことがない。
しかし話に聞く祖父はとても聡明で温和で、いつもユーモアを絶やさない人だった。
大手企業から独立し、200人程の従業員を抱えて会社経営をしていた。植物が好きかはわからないが、多趣味でいつも楽しそうな人だったと聞く。

彼の言葉や歴史は母を通して繰り返し私に語り継がれ、自分の中で反芻され続けた結果、「祖父のような人が身近にいたらどれほど楽しかっただろう」と憧れるようになった。

やがて、「祖父のように会社を経営できるようになりたい」と思うようになった。さらに言えば「祖父のように聡明で温和な人になりたい」という高い理想を抱き続けた人生だった気がする。

しかし、ただの理想でしかなかった想いが、次第に富太郎さんの「赭鞭一撻」のように、先人たちの書物からもらった言葉たち、家族や友人の励ましによって、徐々に現実になろうとしていることを感じる。

「まだまだ先は長いけど、一つ一つ夢を叶えていきます」

「人生を楽しみます」

富太郎さんに手を合わせて、心の中でさらに伝えた。

すると本当に不思議だが、お会いしたこともない富太郎さんと祖父の愛情に包まれているような気がした。
これまでの人生で一度も感じたことのないような心の底からの安堵を覚えて、幸福な帰路についた。

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