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【短編小説】 ユウサネイジア



左を満たし且つ二十歳以上の責任能力在る者は自らの意思で企業と契約を取り交わし安楽死を選択する権利を持つ。

  1. 本人が死に対し自発的且つ真摯な六か月以上継続した意志を持つ。

  2. 本人が肉体的・精神的な耐え難い苦痛を持ち又治癒の見込みが無い。

  3. 本人の死に関連して営利やプロパガンダが行われない。

此れ等は医師が判断し処置の必要が在る者にのみ許可証を与える事とする。



──年も末だが世も末である。
東京メトロ新宿駅の改札を抜けながら広田は思った。十二月三十一日、未だ東雲の時分。七時から常勤の本屋へ向かう道中だ。

東口の改札前の階段を上って地上へ出ると、街はすっかり雪の粧いをこらしていた。
積もりはじめの新雪に足跡を残しながら進んで行くと、程なく巨大なアルタビジョンが現れる。アルタ前の信号が赤になり、荘厳なピアノの音につられて顔を上げた。ちょうど始まったコマーシャルに広田は目を奪われる。

──画面の中で、白い衣をまとった少女が何者からか逃れるように駆けている。
背景は薄暗い湖畔。何度も転んでは、よろめいては立ち上がって再び駆ける。クローズアップされた彼女の顔色はひどく不安げで、びっしょりと汗をかいている。
やがて少女は、走る先に横たえられた大きな黒塗りの棺を見つける。彼女は表情はふいに安らかになり、棺の中へ滑り込み、眠りにつく──。

We support people who wish for death.
(私達は死を願う人々を援助しています)

暗くなった画面に白抜きの文字が浮かんだ。その下には「ユウサネイジア社」との社名がある。広田はそれに気付くと些か胸が悪くなり、アルタビジョンから目をそらした。

この手の広告は何も街頭ビジョンばかりではなく、今日ビルの掲示板でも駅のホームでも目にするありふれたものだ。安楽死を売り物にした企業のプロモーション。

「楽しい死」「幸福な死」「快い死」はたまた「粋な死」「洗練された死」「愛らしい死」「堅実な死」。

企業は様々な惹句を打ち出し、見る者の心を奪ってやまない。広田はこの時節それらを目にする度に思うのだ。年も末だが、世も末である──と。

信号が青になって広田は歩き出す。横断歩道の上には幾重もの轍があった。黒い轍と白雪の境目を踏むと、柔らかく崩れる感触が足の裏に小気味良い。色が混じってくすんだ灰色の足跡が残った。

アルタの前で右に折れ、新宿通りを進む。

その日はまったく静かな日だった。雪の重みで木の枝が撓む音や、自分の革靴が雪の中に沈んでいく濁った音だけが、広田の耳に届いた。まだ暗い時分のせいもあるだろうが、歩道を歩く人も、すぐ横の国道を通る自動車もとんと見かけない。

このままの様子だと、日が昇っても年の瀬らしい喧騒は訪れそうになかった。

──ここらもずいぶん変わってしまった──

広田はつくづく思う。閑散とした街並み、失われた喧騒、陰鬱な空気の色、そして日常に蔓延る死の匂い。

──しかし、それも僕には関係のないことだ──

広田は常に真剣に社会を憂える一方で、どこか傍観的な思いもあった。否、頑なに思い込もうとしていた。
今日、人々の中で「人の死」とは「取るに足りない常凡なもの」であり、同時に「自分の死」とは「夢物語のようにあまりにも遠く、輪郭のぼやけたもの」だった。そしてそういった社会に問題意識を持つためには、社会にあまりにも既存の問題が多すぎたのだ。

しかし広田には、死の世界と縁遠い理由が別にあった。

新宿通りから小道へ曲がった所で、不意に胸ポケットのスマートフォンが鳴る。取り出してみると、恋人の智子からのメッセージだった。

「年越しは私の家で一緒に過ごそうね」

今までとはうってかわって、広田の心は色めき立った。メッセージの文章を何度も口腔で反芻させた。「生きているって、素晴らしい」と、古風なことを思う。

広田は深々と深呼吸をする。グレイオリーブ色のマフラーを巻き直し、日が差して燦然と輝き始めた雪道を、彼は今にも踊り出しそうな心持で闊歩し始めた。



安楽死法は六年前に日本で制定された。

オランダにおける安楽死法を模倣しながらどう履き違えたか。立法者の迷乱か戯言にも思われるような法律は、しかし世論に力強く後押しされ、瞬く間に衆参両議院の本会議で可決され成立した。
この法律における「安楽死」は、なにも重度の精神疾患者や大病の末期患者にのみ施行される訳ではない。重度の肉体的・精神的苦痛を持つ事を条件としているのは表面上ばかりで、実態としては実に安楽死における医師の判定基準は非常に曖昧で、誰にとっても実現は容易いものだった。
「私は死に対して自発的且つ真摯な継続した意志と、精神的に耐え難い苦痛を持っているのです」と頑なに当人が訴えればカウンセリングを行い、意見が六か月以上も変わらないようであれば、医師ももっともらしく診断書を書いて許可証を出す他ない。数え切れぬ論争や反対運動を巻き起こしたが、「安楽死をしたい人」と「誰かを安楽死をさせたい人」の総量はすべての暴動を鎮圧化させ、法を定着させる働きを起こした。

以来、安楽死の大流行は廃る事なく続いた。
年間三万人と言われた日本の自殺者が、凡て安楽死者に変貌を遂げた。そのように自殺者願望者が「死」を商品にする企業に殺到するのは、至極自然の流れと言える。企業は自殺者数を安楽死者に変貌させるだけでなく、増長もさせた。今や日本の年間死亡者数は、六年前の比ではない。

国が認めた安楽死施行企業は二十社余り。中でも比較的安価に設定されている曼珠沙華社・終焉社は、他の企業に差を付けていた。しかし更に擢んでて業績を伸ばしたのは、反対に極めて高費用で「幸福な死」を提供している、ユウサネイジア社だった。

安直なその社名の示すところまさしく「安楽死」。ホスピスの設備充実から苦痛の一切無い安楽死施行、葬儀屋とタイアップして壮麗な葬式にまで力を入れている。ユウサネイジア社のパンフレットを見た者なら、誰しも一度や二度は当社の演出する「死」をとびきり素晴らしいもののように思い違ってしまうことだろう。

そうした現状の中で特筆すべきは──そうして「死」が日常に蔓延するのと同時に、多くの国民の中で「生」に対する価値観までもが変わってしまったことだ。

有体に言うなら、「生」の価値が下がったのだ。

厭世観や人生への諦念から、とかく休日は家に籠もりがちの人が増えた。夏祭りや花火大会でもそう混む場所はなくなり、行列の出来る店や市場の賑わいなどはもはや過去の産物のようだ。一方でインターネットを通じた物流や交流は活発化し、生産・消費活動は歪みながらも増大している。

生とは何だ。死とは何だ。

死を羨望し始めている者も、幸福な人生を歩んでいる者も、博学多才な者も浅学菲才な者も、絶えずこの問いを胸に抱かずにはいられない。
人がいなくなり寂れた歓楽街やビル街の空中に、この問いは浮遊する。問いは同時に、迫られた選択でもある。それも生態系から大きく外れた、正答無き選択だ。

生か、死か。

しかし広田は、そのような疑念を抱いていない数少ない男だった。何故なら彼の中には一つの答えがあるからだ。

横断歩道の雪を見ながら思う。
一見すると白雪と轍のように二分化している「生」と「死」の世界も、蓋を開けてみれば、境の色はひどく複雑に混じり合っているのだ。一様の疑念を抱いた人々は、迷い揺れ移ろう中で、たまたま右にふれたり左にふれたりしているだけなのだ。であるならば、生を選ぶにも死を選ぶにも正解は無く、個人の主観のみが採用されるべきだと思う。

──生とはセックスだ。セックスをしたいから、生きるんだ──

あまりにも愚直な、しかし唯一信じられる答えだった。

安楽死法案が成立したという事実がニュースで伝えられた日のことを、広田はよく覚えている。グレーのスーツを着たショートヘアのアナウンサーが、明朗に原稿を読み上げる姿。薄い上品な唇に、微笑みが乗っているのがおぞましかった。

その時、既に世界は自分の理解の範疇を超えた遠い場所にあるのだということを、改めて思い知らされた。孤独に打ちひしがれもしたものだ。

しかし幸いというべきか、当時広田は十代で、彼には輝かんばかりの生命力があった。幼い時分より強く自覚していた、人並み以上の性的衝動だ。広田にとって、この世にセックスがあるのに死のうという人々の心理は大凡理解しがたいものだった。彼は絶えることない性欲を持て余し、性交渉にこの上ない喜びを見出していた。そしてそれが当然であると思っていた。

二十代も半ばになり、様々な女との性交渉を経てからも、彼の衝動は落ち着きを見せる気配はなく、より美しい女や優れた女との性交を求め、むしろ年々激烈になっていくようだ。
そうして激烈になればなるほどに、その生命力がいつの日か突然に破裂し消滅してしまうのではないかというの恐れが、彼の中で次第に肥大していくのだった。

午後一時。

広田は勤務先の本屋で、新刊入荷のために棚を整理しているところだった。
考えに気を取られて休めていた手を再び動かし、本棚に売れ残って久しい本を、返本用の段ボールに逐一詰めていく。そこでふと返本の中にアウシュヴィッツに関する研究書を見つけて、物珍しさから何気なく開いた。相当長い間積まれたままになっていたらしく、開くと湿気を含んだ埃の匂いが鼻腔に広がった。

冒頭にはアレキシス・カレルの「人間この未知なるもの」の引用文があった。

「不幸な者、利己主義者、愚鈍な者、役に立たぬ者の寿命をなぜ延ばすのか」

一見過激とも思われるこの思想が、実は当時ヒューマニズムの手本とされており、間接的にナチスドイツのユダヤ人大量虐殺に繋がっていったのだという論がその本には記されていた。
広田には感慨深いものがあった。導かれた結果は違えども、日本の安楽死法の根底にもこの思想が刷り込まれているように思えてならない。

日本は高度な医療技術による人口過多の極限状態を経て教訓を得たのだ。人間はこの世に多すぎてはならないと。やがて政府は「不幸な者」の寿命を断つことに尽力し始め、果たして作り出されたのが安楽死法だ。実は国民のみが求めていた訳ではなく、政策としても必要だったのではないか。そう考えると様々な事に合点が行き、広田は思わず武者震いした。

他の返本や新刊は、安楽死に関するものが大半を占めていた。論文、エッセイ、小説にハウツー本。毎月毎月、際限なく出版される。もちろんそれは世間の一番の興味がそこにあるからだ。むしろ、それ以外に関心など無いと言ってもいい。
その中でアウシュヴィッツに関する研究書は極めて異色である。広田自身が政府の策謀を見出したのも、著者の意図があってこそかもしれない。

──しかし、だから何だって言うんだ──

広田は本を閉じ、半ば投げるようにして段ボールに入れた。自分に国を変える術など無いと考えた。できることがあるとすれば、自分が死を選択しないことだけだ。

広田は段ボールにガムテープを巻き、伝票を貼り付けた。

「広田くん。ちょっと振り込みに行ってくるから、店頼んだよ!」

丸眼鏡の店長が本棚から顔を出して言った。広田は笑顔で頷いた。

一通り返本と入荷の作業を終えると、店番以外にすることが無くなった。

店主も客もいないのを良いことに、広田は成人向け雑誌を数冊持ち込む。幾人もの女の裸体を眺めながら、これから会う智子のことを夢想する。すると、小麦色の肌のふくよかな身体つきの女も、色白であえかな身体つきの女も、どれも智子のように見えてくるから不思議だった。

だらしなく広田が頬をゆるめている所へ、客がやってきた。
広田は周章したが、背虫の男がレジカウンターに置いたのは、これまた成人向けの雑誌だった。
思わず広田は拍子抜けする。表紙で際どいラインの水着を纏った女が、悩ましげな表情をしているのを一瞥する。
ただ、女の腰のあたりの「安楽死の前に選ぶイチオシ風俗特集」という袋文字が気になった。

──猫も杓子も、安楽死か──

会計が済むと、背虫はどこか共犯者めいたような視線を広田に送って去っていったので、少しばかり気分を害して、うつむいた。

それでも懲りずにしばらくは成人向け雑誌を堪能していたが、その楽しみにも飽きると、バックルームのロッカーからスマートフォンを持ち出した。
智子へ待ち合わせの場所についての返信をし始める。

智子は大手アパレルメーカー社員で、広田より六つ年上だ。六つ年上だけあって、落ち着いた物腰と包容力ある笑顔が魅力的な女性である。
色香漂う豊満な身体つきや、意志の強そうな鋭い目、とがった鼻、まるい唇。それらを思い浮かべ、広田は恍惚として夢想を始める。彼女と交際が始まってひと月、忙しさのために会う機会も少なく、関係はなかなか進む事がなかった。
六つ年上の彼女に気後れしていた節もあっただろう。そうとあって、今回の誘いから得た喜びは底知れないものだった。

それでもずっと、広田は心の隅に痼りがあることを認めなければならなかった。
痼りの正体はまだ判りかねた。ただ、安楽死について思いを巡らせる度にその痼りが大きくなっていくことだけは確かだった。


勤めを終えた広田は、新宿から山手線に乗って渋谷駅へ来た。
ハチ公前改札口を出ながら、彼は時計を見る。智子とは午後六時に落ち合う予定だったが、彼の腕時計は五時三十一分を示していた。

──早く着きすぎたな──

朝方積もった雪は日中の間にすっかり溶けて無くなっていたが、日が傾き始めたその時分、渋谷の街は厳寒の中にあった。広田はマフラーに顔を半分程うずめ、身を縮ませながらハチ公像の脇に歩を進める。震えながら花壇の縁に腰掛けた。

渋谷の街も、昔と変わって寂れた場所の一つだ。
昔ならば待ち合わせをする人々でごった返していたハチ公口が、今広田が見渡す限りで人の数は二十か、三十か──数え切れるほど閑散としている。
地方から出てきたらしい老親を迎えて笑顔の青年や、これから忘年会を始めるらしい楽しげなサラリーマンの集いを見かけると、広田は長らく覚えることのなかった、ほっとしたような穏やかな気持ちになった。

当のハチ公像は手入れをされていないためか、汚らしく見える。そろえられた前足と腹の間に蜘蛛の巣が張り巡らされ、そこへ塵が溜まって黒ずんでいた。

憂いあるハチ公の視線の先には、昔実際に使われていた電車──通称青ガエル電車──の先頭車両が展示物として設置されている。
昔は屋根つきのベンチよろしく扱われ、やはり待ち合わせをする人々で、満員車両さながらに混雑していた。今では錆が浮いて埃が積もり、長らく誰も足を踏み入れてさえいない。

薄汚れた車両に、真新しいポスターが無造作に貼られていた。目を凝らすと、格安の安楽死で名の知れた曼珠沙華社のポスターだった。
でかでかと料金プラン表が記載されており、その横には「年の瀬割引」という文句が打たれていた。

──ご苦労な事だ──

広田は思わず苦笑した。
昔は年の瀬に最も自殺者が増えるとよく言われていた。このご時世ではちょうど安楽死会社の繁忙期ということになる。あまつさえそこに割引など加われば、一層の繁忙は避けられないだろう。

──奴らの考える事はよくわからない──

そう考えた瞬間に、昼読んだアウシュヴィッツに関する本の内容が頭に浮かぶ。

──つまりは、減らせる時に減らしとくってところかな──

そこまで考えて、広田は思考を中断した。ともすると安楽死のことばかりを考えてしまう。

ずっと皺を寄せていた眉間を揉みほぐし、広田は深々ため息をつく。
横を見遣ると、先程の老親と青年がこの厳寒の中ずっと立ちづめで口論をしていた。時々「田舎には帰らない」だとか「お父さんが心配を」──という言葉の端々が風に乗って広田の耳に届いた。どうやら、単身で東京に住む息子を老親が心配しているようだ。

無理はない。ここ数年で都市圏がすっかり死の街へと姿を変えた一方、地方にはまだ安楽死法の影響が及んでいない場所が点在していた。
立地条件として安楽死関連の企業がそう多く展開しなかったためだと考えるのが妥当だろう。老親がそういった田舎に住むなら、頑としてでも連れて帰りたいと思うのが常だ。
しかし息子としては、東京に出てきた以上は何かを成し遂げなければいけないと思い込んでいる。大凡のんきにも思われるが、そればかりは曲げられない男の意地だ。そうと聞いた訳では無かったが、広田には青年の心中が察せられた。

広田も田舎から出てきた人間だった。持ち前の生命力に身を任せ、高校卒業と共に親の助けを借りて群馬から上京したが、高卒の学歴は彼が思うよりもずっと重い足枷になった。

──東京で大成してやるんだ──

そういう漠とした野望は、いつまで経っても輪郭を帯びないままであった。いつからか就職を諦め、本屋のアルバイトに落ち着いた。やがて安楽死法が定められ、東京は死の街と化した。

田舎へ帰れば両親は丈夫でいるし、東京よりもよっぽど沢山の友人が生き残っているだろう。しかし広田も、今さら後に引く訳にはいかなかった。

──意地でも大成してやる──

いまだにそう心の片隅で思っている節がある。しかしやはり、相変わらず野望は漠としたままだった。

両親にとってみれば、大成しようとしなかろうと、息子が健康で傍に居てくれる方が嬉しいものだ。たった一人の息子が居なくなって二人寂しく暮らしている両親の事を思うと、広田は少し憂鬱になった。

そうこう思惑を巡らせていると、ふいに眼前に智子の笑顔が現れた。
彼女は白のファーコートに白のニットワンピース、白の手袋とマフラーを身に着けていた。

周囲を明るく照らさんばかりの眩しい姿に、広田は動揺して思わず立ち上がったが、何と挨拶をすれば良いか決めかねて、無言のまま片手を上げた。

「ふふ、しばらく待ったんじゃない? 鼻が赤くなってる」

智子はミトンの手袋越しに広田の頬に触れた。

「いや、丁度良い頃合いだよ。それよりどうしようか。まず食事でもしようか」

「ご飯は家で用意してるよ。行こう」

こちらが意見を差し挟む余地なくまっすぐ返された彼女の言葉に、広田の心臓が跳ね、頬が緩んだ。脳裏には成人向け雑誌で今日見た女の乳房が蘇った。

彼女の家は渋谷駅から少し離れた住宅街にあった。ハチ公バスに乗って行くルートが一番近いらしい。二人は自然と腕を組んで、バス停の方へ歩き始めた。

「ねえ、いま何を考えてたの?」

「えっ」

智子に問われて広田は少し慌てた。その時広田の頭の中は、智子との情事のことで一杯だった。

「さっき私を待ってた時、すごく怖い顔して考え込んでた」

ああ──と広田は返事とも溜息ともつかない息を漏らす。

──何を考えていたっけ──

問われてみるとすぐに思い出せず、やはりふしだらな事ばかり考えていた気がしてならない。そう伝えるわけにもいかないので、別の言葉をひねり出した。

「たいしたことじゃない。田舎の両親のことを考えてた」

「ああ、田舎の──。ちゃんと連絡は取ってるの?」

「ときどき思い出したように仕送りが口座に振り込まれて、それを僕がまた振り込み返す。近頃そんなやりとりしかしてない」

「お互い手数料を取られるばっかりじゃない」

智子はくすくす笑って、広田の肩にもたれかかる。

「お正月くらい、電話でもしないと」

「実を言うと数日前に電話したんだ。元気にやっているから心配するなと言ったけど──本屋のアルバイトの身分じゃ、当分は安心して貰えそうにないよ」

「ゆくゆくは一緒に暮らしたいって、ご両親は思ってるんでしょ?」

広田はその言葉にひっかかりを感じて、少しのあいだ口ごもった。
両親が田舎に住んでいるという事実だけは智子に伝えた事があった。しかし広田はそれ以上──両親や自身の心情などを──まだ一度も彼女に吐露したことがなかった。そう必要な事でもあるまいと思ったのだ。
しかし、質問を繰り返す智子の目にはいやに真剣な色がある。広田は訝りながらも「そうだろうな」と返事をした。

「確かに、自分からは言わないけど、きっとそう考えてるだろうな」

「東京へ出て来て一緒に暮らすつもりはないのかしら」

「親父は地元に愛着があるから無理だろうな。それに突然出てこられたって、二人を養う甲斐性は無いよ」

「そろそろ、落ち着かないとね」

智子は再び小さく笑って、小首を傾げた。ハチ公バスの停留所に着き、ぼんやりしている広田をよそ目に彼女は時刻表を確認する。

「今一本行っちゃったみたい。でもじきに、次のが来るわ」

──落ち着かないとね──

落ち着かないとね、という彼女の言葉に広田は戸惑いを隠せなかった。意味というならば、無論広田が早く就職するべき──という意味だ。しかし、それだけではない響きが彼女の言葉尻にあった。どうにも「結婚」という二文字がちらつく。ありえない事ではない。例え出会ってから数か月も経っていない間柄だとしても、六つ年上の彼女が交際を始めるにあたって、結婚という文字を念頭に置いていないとは言い切れない。

──この人が最後──

そう決めているかもしれない。しかし広田には、結婚のために無難な就職口を見つける気はさらさら無かった。
額に汗となって滲みだした焦燥感と嫌悪感を、これから待ち受けるめくるめく情事への期待でなんとか掻き消そうと試みた。じっと押し黙って、自分の靴のつま先を見つめた。

「何も焦る必要はないよ」

広田の様子に気付いた智子は、取り繕うように言った。あくまでもバスの話をしている体を装って。少し不気味なほどに、賢い女だった。

赤いハチ公バスが到着し、二人は乗り込んだ。バスの中はやはりがらんとしていて、前方の座席に老婆と塾帰りらしい女子中学生がそれぞれ座っているばかりだ。

二人は一番後ろの長椅子に腰掛けた。窓際に座った智子が、突然こちらを向いて嬉しそうに目を細めて、あのね、と言う。

「この赤いハチ公バスが行くルート、『夕やけこやけルート』って言うの」

「へえ」

彼女の笑顔につられて、広田も思わずはにかむ。

「いつも帰りに見える夕焼けが、本当にきれいなの。今日もきっと、行きしなに見えるから」

朗らかな笑みをお互いに交し合う。智子の無邪気な表情を見て、広田はなんとか沈みかていた気持ちを持ち直す事ができた。

車内があまりに静かだったものだから、以降二人は無言になった。断続的に響いているエンジン音が時折赤信号の時に切られると、なおのこと静寂は深まった。

窓際で空を見上げている智子の横顔を、広田は盗み見る。

ビルの隙間から時折差すオレンジの日差しが、彼女の横顔に当たっていた。顎も鼻も尖った、線の細い横顔。伏し目がちの瞼に薄紫のアイシャドウが乗っている。そういう冷たい色が、彼女にはよく似合っていた。

バスはビル街を抜けて、大規模マンションやURの立ち並ぶ閑静な住宅街を走っていた。立ち並ぶ電柱の影が、彼女の横顔に縞模様を作り出す。彼女は広田の視線には気付かずに、見事な夕焼けの色に見入っている。今年最後の夕焼けだった。

彼女の美しい横顔に見入っていると、広田の胸の内に再び朝の幸福な期待が蘇ってきた。鼓動がにわかに早まり、智子の肩にそっと触れた。振り返った彼女は、黙ったまま慈しむような微笑みを浮かべる。広田は彼女に唇を寄せようとする。
それと同時に、彼女の唇が開いた。

「焦らずに続けていれば、本屋の社員にだって、きっとなれるよ」

広田は一瞬躊躇ったが、そのまま彼女に口づけた。彼女のその言葉は、自分をそうして鼓舞しているようでもあった。



ポーン。電子音が鳴る。それまで砂漠と化していたテレビ画面の中に、グレーのスーツを着たショートヘアの女子アナウンサーが浮かび上がる。広田はそのアナウンサーを見た事がある。薄い唇に上品な微笑を湛えている。

「全国の皆様、明けましておめでとうございます」

女は恭しくお辞儀をする。その背後には暗闇の明治神宮が映し出されている。広田は夢の冷めやらぬ気持ちで、ベッドの上からそれを眺めていた。

「明けちゃったね」

一糸も纏わない姿の智子が、広田の左半身に絡み付いたまま言った。頬がすっかり紅潮して、息が上がっている。

「ああ、明けたな」

広田は言いながら、つい今しがたまで眼前に繰り広げられていた情事に思いを巡らせた。白いニットワンピースの智子。脱衣させながら、アルタビジョンに映し出された少女を思い出す広田。智子の乳房。あまりにも想像した通りの白い肌。二度に渡る射精。

広田は疲労困憊していた。長いあいだ待ち望んだ刺激的な情事に、彼はあらん限りの劣情をぶつけた。持ち前の生命力を使い果たしてしまったのかもしれない。
しかし、それだけではなかった。形容しがたく遣る瀬ない憂鬱があった。心にずっとつかえていた痼りが、とうとう取り返しのつかない所まで肥大してしまったように思った。

広田は三度目の行為を途中で已めた。

──あなたもそろそろ、落ち着かないとね──

始終智子の言葉が頭の隅にちらついてどうにもならなかった。

──もし子供ができたら──

今までは劣情の火種になっていた考えが、むしろ劣情の行く手を阻んだ。想像するだけで、身の竦む思いになった。智子の魅力とて避妊具とて、劣情を再び奮い起こす力は持っていなかった。

テレビ画面の中には、明治神宮を行き交う老若男女が映し出されていた。近年見ない程の混雑だ。画面に映るだけで百人以上はいるだろうか。アナウンサーは混雑ぶりについて嬉しげに解説したが、広田はそれより行き交う人々の陰鬱な表情ばかりに気が行った。

──少しもめでたくない顔だ──

その表情は広田の憂鬱をさらに助長する。

ベッドの横の座卓の上には、汚れた食器が並べられている。智子はベッドの上からそれを見て「早く水に浸けないと」と言う。しかし言うばかりで、彼女は一向に動こうとしない。広田の腕に口づけたり、自分の腕を絡ませたりしている。

言いようのない閉塞感を感じて、広田は彼女から逃れるようにベッドを滑り下りた。
テレビの前のソファに腰掛け、チャンネルを変えた。年越しのバラエティ番組はここ数年で番組表から消滅し、残っているのはどれも退屈なニュース番組やドキュメンタリーばかりだ。
チャンネルを元に戻し、床に放ってあったワイシャツを身に着けた。
智子がベッドの上から不満げな視線を広田によこしている。

そんな事はつゆ知らず、広田は胸の内に、感じたことのない悲しみを認めていた。それまで何度孤独な射精を終えても感じた事のない悲しみだった。セックスだけを喜びに生きてきた自分の人生を、無性に蔑み罵倒したい思いになる。

──セックスとは、死である──

いやに哲学めいた思考が頭をよぎる。

性交渉に希望を無くしてみれば、広田にとって人生の喜びなど一つも無いことに気づいた。自堕落なアルバイト生活、見つからない就職口、田舎の両親への憂苦、結婚を望む智子、セックス以外に方向性が無い自分、世の中を恨んで政府や国の悪口ばかり言っている浅はかな自分──。

「それでは、今月のユウサネイジア被施行者名リストです」

アナウンサーの言葉が耳に入って広田は我に返った。少し霞がかっていた意識が、一変して明瞭になる。

「ユウサネイジア…リスト…って何だ?」

広田はテレビ画面に近付く。白い画面に、ゴシック体の日本人名が下から上へ流れ始めた。迅速ではあるが、ざっと読み取るのに無理はないスピードだ。

「知らない?今年から国が安楽死者を奨励することになったって。安楽死者の施行者と、推奨者は名前が放映される。随分前にニュースで話題になってたよ」

「国が?奨励?」

「ばかばかしいよね」

言いながら、智子は素肌にカーディガンを羽織った。身震いしながら腕をこすって、暖房の温度を上げる。

広田はやにわに、散らばっていた自分の衣服を拾い集めた。シャツの上にセーター、ジーンズと次々身に着けていった。

智子は驚いてベッドから下り、広田のセーターの裾を掴んだ。

「なに、どうしたの?」

不安げな彼女の声は、しかしいまだに情事の間の媚態を含んでいた。それでも広田は構わず黒のコートを羽織り、終いにはマフラーや腕時計まで身に着けた。智子はいよいよなりふり構わず、広田の腰の辺りにしがみついて引き留めようとした。

「訳わからない、ねえ、ちょっと待って。どこ行くの?」

彼女は今にも泣きだしそうになった。

「ちょっと、そこまで…」

「それなら私も行く」

「一人で行くんだ」

「すぐ戻るんでしょう…?」

裸にカーディガンのみ羽織って、智子は玄関の近くまで広田に付いていった。縋るように再び広田のコートの裾を掴んだが、彼は返事をしなかった。
智子が二の句を次ぐのが早いか、広田は彼女の手を振り払って玄関を飛び出して行った。あ──という彼女の声が扉の隙間から漏れたが、それきりだった。

マンションの廊下を進むと、隣家の玄関扉に「忌中」と書かれた紙が貼られていた。見ればその隣家にも、そのまた隣家にも貼られている。

ふと、ハチ公前で見つけた曼珠沙華社のポスターの売り文句を思い出した。

──年の瀬割引──

おそらく年の瀬、東京の人口はなおのこと少なくなってしまったのだろう。

マンションを出ても平屋のアパートや一軒屋の扉に「忌中」という文字がちらつく。東京の誰も彼もが、一様に死の穴に吸い込まれてしまったようだった。

広田の腕時計は午前一時を指していた。既にバスも電車も出ていなかった。暗闇の住宅街を、彼は急ぎ足で歩く。明確な目的は何も無かった。ただ歩みを進めずにはいられなかった。

──このまま、曼珠沙華社まで歩いて行ってみようか──

あのポスターによれば、曼珠沙華社の支社が住吉駅にあるらしかった。
渋谷から半蔵門線で三十分近くかかるから、歩いて行けば着く頃には夜が明けているかもしれない。

──それも良い──

年の瀬割引は終わっただろうが、広田の今月分の生活費をすべて充てれば、格安の曼珠沙華社の費用なら足りないことはない。

広田は自分の爪先を見つめながら、眠らない街の中で歩を進め続ける。
爪先の両脇を、アスファルトが流れていく。靴音があちこちのマンションの壁に反響して、自分の耳に返ってくる。その音は心地よく、愉快になってさらに早く歩を進めた。
荷物は財布だけしか持っていなかったから、足取りは軽かった。

──俺は死にたいのか?──

広田はひたすらにまっすぐ前へ歩を進めながら自問する。答えはどこからも返ってこない。答えが返って来ない事に安堵し、彼は歩を進め続けた。

このままただひたすらに足を動かし続ければ、いつかは疲れ果てて腹も減るだろう。そしてその時果たして、智子の乳房と幸福な死の、どちらが恋しくなることだろうか。

セックスか、死か。セックスか、死か。

呪詛のようにそう繰り返しながら、広田は夜の街に消えて行った。

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