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「怒る」ことの教育的意義を考える

今日は、「怒る」ことの教育的意義について考えていきたいと思います。

個人的に、この「怒る」という感情は喜怒哀楽の中で一番難しい感情だと考えています。なぜかというと、「怒る」という行為は基本的に自身にとっても、他者にとってもネガティブな意味をなすことが多く、怒ることのメリットをあまり感じないからです。

怒られて嬉しい人はいないですし、率先して怒りたいという人もいないですよね。

私自身も怒りの感情をあらわにすることはほぼないです。なぜ怒りの感情を出さないかというと、怒っている自分を客観視すると心が小さい自分を大変恥ずかしいだろうと思ってしまいますし、そもそもなぜ相手はこんな哀れなことをしてしまうのだろう、と怒るよりも先に疑問を抱いてしまい、「怒り」よりも先に「哀れ」な感情になることが多いからです。また、先ほども書いたように怒られる側も良い気分はしないですよね。お互いに不快になるのだから極力怒りたくないなと思ってしまいます。

しかし、いつまでも怒りの感情を見せない、ということが常に正しいかどうかは別だと思ったりします。特に教育的な意味合いで使ったり、組織マネジメントの観点では、効果的に「怒る」ことをうまく使う必要があるのではないか、と仮説として持っています。

なので、今回は「怒る」ことについて考えていきながら、怒ることが教育的にどのような意義を持つのか、また持たない場合はどのような状況かを考えていきたいと思います。

まず、なぜ人は怒るのか、を考えてみると主に以下の場合が考えられます。

1. 自分の感情のコントロールが効かなくなり、怒りが外に漏れてしまう場合
2. 相手に対して二度と同じことをしないように牽制する場合
3. 自分の今の深刻な心境を相手に理解してほしい場合
4. 自分の威厳や地位を保持しようとする場合

この中で教育的な意義について考えてみると、利己的な理由で怒っているか、そうでないか、という観点が非常に重要になります。そのように考えると上にあげた4つの中では、2番のみが利己的で”ない”に該当するのではないかと考えられます。しかし、2番だとしても利己的な理由は存在し、利己的な動機から怒るだけであれば教育的意味は為さないと考えます。どういうことかについては次に説明します。

まず、教育的意義を為さないと考える1, 3, 4について述べていきます。基本的にこれらは全て利己的な理由による怒りです。

怒るときの動機としてありがちなのは1,4ではないでしょうか。耐えに耐えられず怒りをあらわにしてしまう場合は誰しもあるかと思います。全然自分の言うことを聞いてくれない、どんなに伝え続けても期待に応えてくれない、など、「何でできないの」「何でいうことを聞かないの」ともう我慢ができずに感情をあらわにしてしまうケースが1です。

また、4についてもよくあるケースで、例えば組織のマネージャーが部下に対して舐められないように何らかの方法で関係性を明確にする手法として怒りを用いる場合があります。自分の地位を誇示するために「なぜそんなこともできないのか」と言ってしまったり、部下のミスによって責任を取りたくないので、目標を達成できなかった部下に対して罵倒してしまったりする場合があります。これは学校現場においても「先生」と「生徒」、「学校」と「保護者」などの立場に置き換えても同じことが言えるでしょう。3についても、今述べたのと同様のことが言えるかと思います。

これらの怒りの動機については非常によくわかると思っていただけると思うのですが、これは利己的な動機でしかなく、その場においての最適な感情表現とは言い難いです。「個人の感情をスッキリさせたいから怒る」、「個人の地位維持やプライドのために怒る」といったことは相手にとってはメリットを感じません。ただ怒られて不快な気持ちになってしまうだけです。もちろん1,3,4の場合であっても、場合によっては相手が悪意を持った自分に対して迷惑行為に対しての自己防衛などは例外なので、100%がこの限りとは言いません。が、多くは利己的である場合が大半でしょう。

一方で、2については、自己の利益に繋がること、他者の利益に繋がることの両側面を持っています。特に他者の利益につながることは、すなわち教育的意義を持っていること、であるとも言えます。

他者の利益につながる例として、中学生の生徒に、社会人になった時に恥ずかしくないように生活習慣や哀れな行為に対して怒りを示して矯正する、などは相手のことを思って怒りを選択しているわけです。これは教育的には非常に意義のある行為となります。逆に怒らずにそのまま見てみぬふりをする、相手にとって心地よいと思うことだけをし続ける、ことは反対に自分自身が怒らないほうが楽で心地が良いからという利己的な理由で怒らないことになります。それは教育的には問題でしょう。

もちろん利己的な側面としても意味をなす場合もあり、怒ることで自分が所属する組織の調和が保たれ、統制が楽になる、という自己の利益もありますが、他者の利益に繋がること、が必ずなければいけません。

ここから言えることは、「怒り」は感情的ではあるものの、常にコントローラブルなものでなければなりません。

つまり、あえて「怒る」という選択肢を持てるだけの余裕や両者の状況把握のためのメタ認知が必要になります。

そうでない場合は大抵が利己的な理由だったり、衝動的な感情としての怒りであるため、相手からはなぜ怒られたのかわからないと相手も怒りの感情を抱いたり、モチベーションの低下や信頼の欠落も引き起こされます。決して感情的に怒ってはいけないのです。

「怒り」をコントロールするのは大変難しいことではあると思うのですが、以上の点を把握し日々の生活の中で実践していかないといけませんね。

では、怒りをどのようにしたらコントロールできるのか、ということなのですが、一度怒る前に他者が今、ここで怒られたらどのような感情になるのか、どのような思考になるのか、を考えることだと思います。これを考えた後に怒るというのは本当に難しいです。なぜなら怒りというのは衝動的で、感情的なものだからです。一度他者の気持ちを考えることは、冷静になること、物事を客観視することであり、再度感情的になるには相当なパワーが必要になるからです。

とはいえ、先述したとおり、ここで怒らずに目を瞑ってしまえば、いつまで経っても相手はその行為を哀れだと認識しなかったり、社会に対して害を与え続けたりしてしまうので、他者を思うのであれば、教育的には、怒らなければいけません。

ここの見極めと労力が必要になり、一番難しくなかなか頭ではわかっていても、行動に移すとなるとできないものです。まずは、利己的な感情からの怒りを極力排除し、怒る前に立ち止まって状況を整理することから意識するといいのではないかと考えています。

しまりがあまりよろしくないですが、怒ることは私の中でも常に考えている領域です。みなさんの考えもぜひお聞かせください。

それでは良い1日を!





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