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〇〇"的"という言葉が現代社会に必要な理由

みなさんこんにちは。大変ご無沙汰しております。
あっという間に年度も替わり2023年も1/3が終わろうとしています。
実は2023年の初エントリーです。

最初に相応しいかどうかはさておき、本日は、"的"という言葉について考えてみようと思います。

みなさんはこの"的"という言葉をどのように使っていますか。

非常に便利な言葉ですよね。個人的にはとりあえず〇〇的と言っていれば丸く収まる感覚があります。

どこか言い切らない感じがあって、無責任な言葉のような印象すら持ちます。

そして話を聞く側からしても、"的"を話し手が使ったところであまり気にもなりません。なぜならサブ的な言葉だったりするからです。(ここまででも相当数の"的"を使ってしまっています笑)

しかし、実は"的"という言葉は非常に重要な役割を果たしている言葉なんじゃないだろうか、とぼんやりと1年前くらいから思い始めています。

なぜなら、当社としては、「Thinking Critically about SDGs」というSDGsを学びながらクリティカルシンキング力を養う教材を開発・提供しています。

よくクリティカルシンキングを相手に説明するときに「批判的思考」なんていう風に伝えるわけですが、聞き手の印象としては「批判することでしょ」「相手を否定する感じだからあまりポジティブな印象を持たない」こんなところを抱くのではないでしょうか。

ただ、実は着目して欲しいのは「批判」の部分ではなくて、「的」の方だったりするわけです。批判"的"とすることで、あくまで批判的な態度を取ってみるということであって、実際を批判しているわけではありません。前提を疑ったり、通説に対して疑問を唱えること、と補足をするならば、あまり悪い印象を持ちません。しかしながら、そこまでしないと伝わらない故に「クリティカルシンキング」という言葉がなかなか日本人の中に根付かないのかななんて思ったりします。

そんなところから"的"について考えていたところに、もうお馴染みの私が愛用しているポッドキャスト番組「超相対性理論」の以下の放送で「アナキズム"的"」が重要だよね、という話が出てきていて、なるほどなと思ったため、ブログにしてみようと思いました。

的という言葉の定義

まず定義について改めて確認してみたいと思います。

名詞、特に抽象的な意味を表す漢語の名詞や体言的な語および句について、体言または形容動詞の語幹を作る

1. そのような性質を持ったものの意を添える
2. 文・句を受けて全体を体言格とする場合
3. 漢語について、直接、または「な」を伴って連体修飾に使う
4. そのような性質を有する、それらしい、の意を表す
5. それに関する、それについての、その方面に関わるなどの意

日本国語大辞典第2版(小学館)

上記のように"的"はさまざまな役割があります。日本語が理解できる人は的と聞いたときに瞬時にいずれかの意味で理解するのだからすごいですね。

先であげた「批判的」を例にとると、4番が一番しっくりきますかね。批判するような性質を有する意味合いとして考えられるのではないかなと思います。

一方で、個人的とか、一般的とかで使われる的は5番とかだったりしますね。

非常に便利な言葉だなと改めて思いました。

"的"という言葉が現代社会に必要な理由

さて、ここからが本題ですが、個人的には"的"という言葉が現代社会において極めて重要な立ち位置にある言葉なのではないだろうかと思っています。

先でも述べたように定義の4には「そのような性質を有する、それらしい、の意を表す」と書かれており、「そのようなやそれらしい」という抽象的なニュアンスが含まれています。断定するわけではないが、それらしき物体やイメージの方向性を意味づける言葉なわけです。

こんな曖昧な言葉がなぜ必要なのか、という問いについてですが、現代社会は社会規範やルールにより、私たちは私たちが作った社会規範に苦しんでいます。

宮台真司先生、野田智義先生の共著『経営リーダーのための社会システム論』でも地元商店街を例にとり、コミュニティの中で生きる「生活世界」と完全合理性を追求したコンビニ化社会の「システム世界」の概念を対比させながら表現されていますが、まさに我々は「システム世界」が確立された社会を生きており、さまざまなモノやコトが明確にカテゴライズされて、ルールという明文化された社会規範のもと分断された社会を生きています。

面白いことにポッドキャストも著書もどちらも"子どもの遊び"について表現されおり(もしかしたらポッドキャストで話されていた渡邊康太郎さんも本著から引用していたかもしれないが)、子どもの遊びは社会ルールを超越したルールを創り出すことによる倫理観の醸成のようなことを言っていました。

例えば、鬼ごっこはそこに鬼がいて、そしてそこに鬼から逃げる人がいる。そんなゲームです。ただそこには鬼から必ず逃げなければならない、のような法律はもちろんありません。その空間、その遊びに参加している人だけが鬼ごっこが提示するルールのもと動き、その瞬間ではそのルールが法律から脱却されたものとして現れます。

鬼ごっこは単純な例ですが、時に子どもの遊びは危険を伴う場合もあります。少し前までは自転車鬼のように遊びの中でルールを発展させたり、チャンバラなどちょっと危険な遊びをしていたりしました。こうして良い行いとは何か、安全とは何か、ルールとは何か、を学ぶのだと宮台先生は指摘されていました。

ただし、現代社会では、治安的にも外で遊ぶことが難しくなったり、公園ですら「ボール遊び禁止」など様々な規制があります。つまり、遊びのルールよりも社会のルールの方が強くなっています。これが現代社会の特徴です。こうして社会ルールを守ることが当たり前として育った大人が「システム世界」に完全に侵された状態なのだと著書では述べられています。

少々話は脱線しましたが、なぜ今の話と"的"の話が関連しているのかというと、この「システム世界」を許容しつつも、うまく距離を保つことができる言葉が"的"なのではないだろうかと思うわけです。

「システム世界的」と表現すると、なんだか自分自身がシステム世界にもいるし、システム世界を俯瞰してみているニュアンスに一気に変わりませんかね。

つまり、"的"という言葉は、それを修飾する〇〇と別の世界をつなぐ非常に便利な言葉であるというわけです。ようは一方を完全否定するわけではなく、他方の可能性も示唆する意味合いが生まれます。

以前のブログでも二項対立から脱却すべき点について述べていますが、同じような状態を"的"という言葉を使えば解消できるのではないか、と思ったわけです。

ポッドキャストでも荒木さんが言っていましたが、ささやかなルールの逸脱を少しずつ仕掛けていくことは非常に重要だなと思っています。そうでないと、何かの有事で今までの前提が全て覆された時に身動きが取れなくなってしまったり、ひたすらに悲しみに暮れてしまう、なんていうことが起きてしまうのではないかと思うわけです。

なので、”的”という非常に都合の良い言葉を使って、新しい概念を既存の概念にブレンドさせていくことが必要なのではないかと考えます。

ポッドキャストでも今の政治を完全否定するのではなく、”アナキズム的”な考え方も大事だよねとゆるやかに新しい論を唱えていくことができます。

いやいや、アナキズムが大事だ!と言い切ってしまうと、あなたはそっち派と明確に線引きができてしまいます。

まとめ

ここまで"的"についての必要性を考えてきましたが、みなさんいかがでしょうか。

個人的には"的"をうまく活用して両方の説であったり、多様な論を受け入れつつ、緩やかに自分の意識を執着させていくことが「システム世界」とうまくやっていく術なのではないかなと思った次第です。

ぜひ皆さんからのご意見をお伺いできたらと思います。


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