見出し画像

友達という概念とその教育効果

今日は友達について考えてみたいと思います。このテーマにしようと思った背景はとてもシンプルな話で、これまでもこれからも友達という存在は自分にとってかけがえのない存在で、相手も自分も豊かになる関係性で最高だよね、と思っているからです。最近は友人とも会うことが増えてきてより感じるようになっています。

友達といると笑顔になれるし、友達となら安心するし、友達とならワクワクするし、友達となら楽しいですよね。

つまり、友達はあなたにとってポジティブな影響を及ぼしてくれる、そんな存在なのだろうと思います。

個人的にも友達という存在がなければ、きっと人生はつらかったし、つまらない毎日だったろうと思います。

そして最初に複数名の友達を作るタイミングというのは、学校に行き始めた時ですよね。幼稚園か保育園、また小学校に入学してから、家族以外の人と関わる時間が増えるわけです。そして、そこに集まる人々と社会的な交流をしなくてはなりません。

そのような意味では、学校と友達というのは非常に親密な関係性の上で成り立っています。

正直に言ってしまうと、個人的な学校生活を振り返ってみると、あれこれ勉強のことが思い出として出るよりも、圧倒的に友達とどんなことをしたか、という方が残っているというのが正直なところです。(ここのバランスについてもまた別の機会に述べていこうかと思います)

少しだけいうと、実は授業等で獲得する体系的な学びというのは、学校生活において、1日の1/4程度(6時間ほど)であります。それ以外の2/4が睡眠や家での活動、そして1/4が趣味や外との関わりに充てられる時間なわけです。
※ざっくりとした感覚なので、必ずしもその限りではありません

このように考えると、授業等における学びのデザインと同じくらい、趣味や外との関わりについても教育全体を見通す上では重要な要素になりうるのです。

というわけで、今日は真剣に友達について考えてみたいと思います。

友達とは?

まず友達ってなんだろうか、という点について明らかにしてみます。

互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「―になる」「遊び―」「飲み―」
goo辞書

辞書によると、互いに心を許し合って、対等に交わっている人という表現がされています。確かにそうですよね。ある意味心地よさだったりするわけです。

しかし、非常に抽象的な表現であり、ここには深さの概念は記載がないです。

深さというのはどういうことなのかというと、どこまで心を許せるのかの深さや、どのレベルまで対等なのかという点などの距離感の意味合いです。

では、みなさんにとってどこからが友達と言える範囲なのでしょうか。友達だと思う方の顔を思い浮かべてみてください。意外と曖昧だったりしますよね。

「知り合い」と「友達」の線引きは迷う瞬間というのが時にあります。

学校生活における友達


幼稚園や保育園卒業間近になると口ずさむ歌があります。

「一年生ーになったーら、一年生ーになったーら、友達100人できるかな?」

誰もが一度は歌ったことがある曲かもしれません。

学校に行けば、友達が増えるんだな、と漠然と思っていた記憶があります。

そして、実際に私個人的な話で言えば、友達がいたことでその後の学校生活に彩りがあったし、楽しいことも、悲しいことも、一緒に乗り越えることができたんだと思います。

しかし私たちには漠然と友達にも「親友」や「いつメン」と呼べるような親密な友達もいれば、たまに遊ぶ「友達」もいます。

また、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人とライフステージが変われば友達も変わっていきます。

これらの事実は非常に興味深いですよね。
特に中学校なんかは、昨日まで親友と呼ぶほど仲の良かった関係性が、ある日を境に恨みあう、なんてこともあります。そして、そのような関係になった途端、光り輝いていた明日の景色が真っ暗になり、絶望の淵に誘われるような感覚になったりします。

それだけ、発達段階において友達という存在は大きな影響を及ぼしていることがわかります。

愛知医科大学の松永教授の研究では、幸せな友人の存在が幸福を著しく高めるという研究結果を報告しています。

つまり、感情の機微が大きい青年期において友達は重要であることがわかります。

知り合いと友達の線はどこにあるか

私たちはコロナによって様々な生活様式が変化していますが、その中でも影響が大きいものの一つはコミュニケーションの一つでしょう。

最近はコロナ禍によって、人々が物理的に交わる総数は減少しています。一方で、人とのコミュニケーションの頻度はオンライン化されたことによって、逆に増えていたりします。これまで遠い距離にいる相手と半年に一度しか会えていなかったことが、対面で会えなくなったが、月に一回オンラインで話すようになったなんてこともあります。

一度もまだ対面では会ったことがないのに、オンラインでたくさん話している人というのもかなり増えているでしょう。私自身もそのような方々は多く存在しています。そして、そのようにオンラインで話をする、話をしたいと思うのは心を許しているからです。

果たしてこの関係は知り合いでしょうか、友達と言えるのでしょうか。

友達であるか、ないか、の線引きをする際には以下のような軸があるのではないかと思います。

・価値観や思考への共感性
・利害関係の無視
・社交的な態度を必要としない

いかがでしょうか。意外と要素としては多くないのかなと思います。先ほど価値観や嗜好に関する共感性は述べましたが、2つ目や3つ目のポイントは大きいのではないでしょうか。

たとえば、利害関係の無視では、主従関係の無視とも言えるかもしれません。簡単にいうとどちらかが偉くて、どちらかがそれに従う、またどちらかがメリットを享受し、どちらかがその代償を乞うという関係性が無視される状態にあることです。この人と一緒にいれば良いことがありそう、などという損得勘定などは一切考えずに、その人と一緒にいたいかどうかというシンプルな基準で考えることになります。

また、社交的な態度を必要としないに関しては、言い換えるならば「ありのままの自分でいられる」ということです。もちろん親しき中にも礼儀あり、という言葉があるように、節度を守ったコミュニケーションは誰しも必須ですが、その上で、自分のありのままの姿をさらけ出せる関係性は重要です。

これらのポイントが網羅されている相手であれば、おそらくそれは友達という間柄と言えるのではないでしょうか。

友達と教育

さて、いよいよまとめに差し掛かっていますが、そもそも友達を作ることが教育にとって良いことであるのか、という点です。

色々と文献などを調べていくと、なんとなく友達の"数"よりも"質"であることがわかってきました。

どのような友達と行動するか、によって自分自身が大きな影響を受けるのだ、ということです。

友人からの影響については、ほとんどの生徒が学習意欲の高い友人を持つことで学習意欲が上昇したり、逆に学習意欲の低い友人を持つことで学習意欲が低下するということを経験していることが示された。中学や高校では、ほとんどの授業は教室を単位に行われており、クラスメイトの学習意欲や授業態度は、良くも悪くも影響を及ぼし合っていると考えられる。
学級内の友人関係が生徒の学習意欲に及ぼす影響 - 友人の学習意欲の高さと、生徒の有能感に着目した検討 ~ 石田康彦, 2014

また、自分自身がどのような価値観や性格を持っているかによって、その影響のされ方も異なるということがわかっているようです。

いかがだったでしょうか。

これまで述べてきた内容からわかることとしては、友達は自己に大きな影響を及ぼし、友達の挙動によって、自分の挙動が変わっていくということです。

しかしながら、友達というのは、気心知れているという点も軽視してはならないので、確かにこの人と一緒にいることができれば、自分も成長の機会になる、と思ったとしても、その時の関係性は主従関係でしかなく、それはすなわち友達とは言えないでしょう。

大事なのは、互いに心を許し合って、対等に交わっている人、一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人、であるという最初の定義であり、ここに立ち返りながら、どんな人が友達だと言えるのか考えてみるといいかもしれません。

最後に、私が今経営実践研究会というコミュニティに入っているのですが、そこの会長がよくこんなことを言っています。

あなたが大切にしたいと思う人の名前を30人書けますか?

皆さんも少し思い浮かべてみてください。

そして、その後このような問いもします。

では、他の人にも同様のことをしたらあなたの名前は何度書かれますか?

これこそが友達の本質なのではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?