ファストフード化するコンテンツを考える ~「消費」への態度とは~
今日は「コンテンツ」「消費」をメインテーマに書いていこうと思います。
はじめに
まずは消費について。
みなさんは、消費についてどのように考えたり、思ったりするでしょうか。
そんなこと特に考えていないよ、と思われるかもしれませんが、私たちは日々、何かを消費しています。
普段口に入れる食材を消費し、喉が乾けば飲み物やペットボトルを消費し、娯楽ではYouTubeやNetflixで動画コンテンツを消費し、耳ではSpotifyやApple Musicなどで流れる無限の音楽コンテンツを消費しています。
これはGoogleトレンドですが、2004年から現在まで右肩上がりに「consume(消費)」という単語は頻繁に用いられていることがわかります。
消費、という言葉が注目されている現代ですが、一つとしては「環境問題」があげられています。大量消費をすることで、環境汚染が進む、みたいな話はよく聞きますよね。
これが一つあると思いますが、今回は「環境問題」がテーマではなく、コンテンツを作る「つくり手」の方に焦点をあてながら書いていきたいなと思います。
なぜつくり手なのか。
なぜ「つくり手」をテーマに書いていこうかと思ったかというと、私が運営する一般社団法人国際エデュテイメント協会では、SDGsを学びながら批判的思考力を養う教材「Thinking Critically about SDGs」やソーシャルアントレプレナーシップ教材 「ARISE」という教材を開発しており、「コンテンツ」を提供しています。
大体1人あたり1000~数千円という単位で提供しているのですが、このコンテンツをリリースするまでに少なくとも時間としては1年以上、そして数百万(厳密な数字は控えますが、100~200万とかのレベルではない)単位というコストがかかっています。
他の大手企業に比べたら何百分の一にも満たない費用ですが、私たちとしては大きな投資にはなっています。
そして、もちろんリリース後も定期的なメンテナンス、改訂作業があります。
そのような背景の中で、エンドユーザへの提供価格が先に述べた金額というのは、少しばかりの切なさを感じることがあります。
ただしこれは、あくまで市場の原理なので、エンドユーザが悪いとかではなく、シンプルに市場の流通として、それくらいが相場なわけです。
他方で、もし仮に多くの人が対象のコンテンツを購入したとします。しかしながら、それらのコンテンツに対し、目だけを通すや聞き流す、ということも少なくはないかと思います。
私自身もそのような行為をしています。音楽ストリーミングでは、電車に揺られながら、Daily Top50のようなランキングプレイリストを再生し、曲名もわからないまま、次から次へと曲を流していきます。
目にする広告、手にするチラシ、口にする食事。私たちが生きる日々にはたくさんの「モノ」に触れ、そして過ぎ去っていくのです。
それは経済合理性の中で、価格や量が調整され、それをいち早くハックした企業や人が大きくなったり、えらくなったりします。
Netflixは最高の大量コンテンツを最高の大量制作スタッフと大量のお金で、量産をします。そしてたったの2,000円程度で何万というコンテンツを消費することができます。
ファストフードのように、作っては消費される、という現象がコンテンツビジネスにおいても当たり前になっています。
そして拍車をかけるかのように、生成AIの台頭により、さらなるハックが進んでいきます。
この事実をどう捉えるかはみなさん次第だとは思いますが、必ず消費されるモノの裏側には、血のにじむ努力と莫大な(時間的・金銭的)コストがかかっているというわけです。
消費とは。
さて、ここでは少し話を立ち戻って、そもそも消費する、とはどういうことか、について見ていきたいと思います。
辞典によると、消費とはこのような定義がされています。
個人、経済、政府など様々なレイヤーによって消費の目的が変わってくるようですが、簡単にいうと、
の2つに分かれるということですね。
また、他の事典での説明を見ると、以下のように説明されています。
1と2では、「なくなるもの」と「なくならないもの」に対する消費を指しているかなと思います。
最近では、2番の意味合いでの消費に関することは個人的な関心です。
例えばデジタルコンテンツの消費についてはまさにこの部分に当たります。
私たちの消費への態度
さて、ここまで消費について述べてきましたが、そろそろ消費に対するアプローチについて考えていきたいと思います。
最初にお伝えしておくと、私自身は昨今の消費のあり方に対して何らかの違和感を感じているからこそブログという形にして整理しようとしています。
その違和感というのが、先述したように「つくり手」が手塩にかけて作ったコンテンツが、つまみ食いのように貪られている状態に悲しさを感じる、という点からきています。
ではどうしたら良いのだろうか、ということですよね。
消費への行動自体を変えることだ!と思われるかもしれません。
私たちのSDGsの教材でも「Doing more and better with less(最小限の行動で最大の効果を発揮する)」な行動とは何かを考える問いがあります。行動変容へのアプローチは重要であり、それが実現できれば理想です。
しかし、これだけ供給過多な状況で、消費量を一気に抑制する、というのは現実的ではないかなと思っています。
ではどうするか。
消費する際の態度を改めるしか方法はないかと思います。
端的にいうならば「味わう・噛み締める」といった消費行動でしょうか。
例えば、一杯300円の牛丼とコース30,000円のフレンチであれば、一品一品の消費行動は変わりますよね。
どれも30,000円のフレンチコース並みの消費行動を、とはいかないですが、自分にとって良いと感じたものは「じっくり味わう」ことが大事なのではないかと思います。
例えば、音楽であれば、最低限アーティストの名前と曲名を抑えておく、何度か曲を聴き直すとかですし、動画であれば、2倍速とかで再生しない、とか、動画を見ながらメモをとる、などが「味わう」態度につながるでしょうか。
タイムパフォーマンス(タイパ)を意識する現代社会において、なんて非生産的で非効率的なんだ!と思うかもしれませんが、もしかすると実際には「味わう」方が、個々人の中に蓄積されていくかもしれません。
よく受験勉強でも、参考書を何種類も買って、たくさん問題を解くよりも、赤本を一つ買って、何周もしたほうがよっぽど点数が上がる、なんて言われたりしますよね。
きっとそういうことなんだろうと思います。
他方で現代の私たちは、コンテンツに溢れすぎていて、消費が「受け流し」になり、受け入れて、吐き出すことを高速回転するが故に、残らない、ということもあるのではないでしょうか。
「つくり手」として目指す姿
最後に、「つくり手」としての理想の姿を考えて終わろうかと思います。
コンテンツへの考え方として、消費されるコンテンツには3つのタイプがあります。
経年劣化するコンテンツについては、時事性が強いコンテンツになります。例えば、芸能人のゴシップネタは、皆さんの興味をそそるニュースにはなりますが、報道がなされた瞬間が一番鮮度の高い状態です。そこから、日が経過されるごとに鮮度が落ち、最終的には陳腐化され、価値が低くなっていきます。
色褪せないコンテンツについては、恒常的に一定支持されるコンテンツのことを指します。例えば、私は最近筋トレをしているのですが、YouTubeで腹筋の動画を見ながら腹筋をしていたりします。その際の動画はいつも同じものを繰り返し繰り返し見ます。大きな発展や技術革新などが起こらない限り、一定期間ずっと支持されるものを色褪せないコンテンツと言えるでしょう。
そして最後に大器晩成型コンテンツです。これは、コンテンツが世に出された時には、ニッチな領域での支持はあるものの、マジョリティには認知されていない状態であり、時代の変化とともに、そのコンテンツが多くの人に支持される、というコンテンツになります。画家なんかはよくそういうケースがありますよね。ゴッホも生前は無名でしたが、死後に世界中で愛される画家になりました。
このようにコンテンツにも色々なタイプがあることがわかります。
そして考えなければならないのは、「つくり手」としてはどのタイプのコンテンツを意識すれば良いのか、ということです。
どれが正解とかはありませんが、「つくり手」が外部からどのように見られたいか、によって使い分ける必要があると思います。
例えば、本屋に行くと、お店の入り口付近に並んでいる本は、時事性が高いものですよね。いきなり夏目漱石やヘミングウェイのような本が目に飛び込んでくるような本屋はないかと思います。
このようにして、顧客にとって何がトリガーとなるのか、によって業種業態のあり方によって、入り口の設計は変える必要があります。
ただし、1.の経年劣化するコンテンツは、瞬間風速的には一番効果があるものの、陳腐化していきますので、やっぱり2.色褪せないコンテンツ、をつくり続けたる必要があるのかなと思います。
そして、「味わう」コンテンツがどれか選ぶならば、2と3になるでしょう。
さて、これまで「消費」と「コンテンツ」について様々な視点から述べてきましたが、皆さんは消費に対して、コンテンツに対してどのような見解でしょうか。
また機会があればぜひコメントでも教えてくださいね。
それでは、良い1日を。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?