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鬱、ADHDの私が起業するまで

この記事について

私が起業するまでに至った人生観など、つらつらと書いていきます。
私がどんな状態で働いてきたか、何を思ったか、何を行動したか。会社ごとで全く違いました。
フリーランスになってからについても振り返ります。
一言でいうと、「逃げ」の人生だなと思いました。自分語りです。それでも良ければ時間つぶしにでも見てみてください。
感想は https://twitter.com/sorabin_ まで。

私の来歴(子どもの頃)

私は昔から自他ともに認める「真面目」でした。母曰く、「曲がったことが苦手で、幼稚園の頃からいじめっ子に対抗していじめられっ子や弟を守ってた子だった」とのことでした。私はその頃の記憶はありませんが。その真面目さが仇になったのはいうまでもありません。
小学生の頃は5年生までは順調だったそうです。ただ、いじめっ子にターゲットにされてしまった。彼らは二人組のいじめっ子で、私はいじめらてしまって「学校に行きたくない」と始まってしまった。これが私の不登校の始まりでした。当初、どんないじめをされていたのかは覚えていません。

中学生の性格を形成する時期にいじめを経験した私は、鬱を発症してしまったのでしょう。当初「鬱」だとは言われなかったものの不登校にはなってしまいました。小学校の頃いじめた子たちは違う中学校になったと安心したものの、今度は女子に目をつけられたのでした。
・靴の中に画鋲を敷き詰められる
・ロッカーにゴミを詰め込められる
・教科書を破り捨てられる
・筆箱をゴミ箱に入れられる
・友人だと思っていた人が机に「死ね」と書いていたのを目撃する
ということがあって本当に塞ぎ込んでしまい私の心のネガティブさに拍車がかかりました。そのころからですね、カウンセラーさんのお世話になったり、市立病院の精神科・小児科にかかったのは。
ただ、当初から数学と音楽は好きで、周囲の目の気にせずその2つの教科は頑張って参加していました。
ただやはり朝から行くのは怖かったです。保健室に行くのも他の学生と時間をずらしての登校だったり、保健室に学生が来れば怖がって部屋の隅に隠れていました。

高校は、中学から成績をもらえなかったこともあり、私立のいわゆる底辺という悪名で有名だった高校に入りました。大声で下ネタを叫ぶ先輩がいたり、喧嘩して窓に向けて椅子を投げた結果、グラウンドで体育の授業をしていた我々の頭上からガラスが降ってくるなんてことも。
中学からのしがらみを断ったのか、皆勤賞をもらって不登校にもならず、体重20kg落としました。今から考えるとよく頑張ったものです。高校は、修学旅行もたくさん楽しめたし、何の不満もありません。良いクラスメイトに恵まれて本当に楽しい学校生活でした。終盤、少しいじめみたいなものはありましたが、数人からは数年後に謝罪されました。原因はなんだったんだろうかと未だに考えます。

その後、本当は大学に行って教員になるつもりでした。数学は本当に好きでクラスメイトに教えながらやっていました。ただ現実は甘くなく、中学で成績不良だった子や私のように不登校で成績がもらえなかった人が集まる高校で学ぶことなんてたかが知れていて、国公立の大学に行くには浪人するという選択肢しか取れなかったのです。

浪人しました。そして、浪人した中で、進路変更をしたんですよね。私は自分の頭の悪さに嫌気が差して、思い切って大学を諦めました。今ならばもっと頑張ろうと思えますが当時から「逃げ」に対して抵抗がなかったのかも知れません。逃げて、専門学校へ進みました。そこで、やはりIT関係が私にあっていたのでしょう、卒業課題も優秀賞をもらって卒業しましたし、大学生でも得られない知識と国家資格を多く得てきました。

社会不適合者の烙印(社会人1社目)

新卒で働いた企業が所謂ブラック企業でした。
定時以降はタイムカードを切ってから23時までだったり、日によっては日付が変わるまで働いていました。定時以降も勤務時間を記録につけようものなら、上司から別室に呼ばれて「お前の分際で残業代もらえると思ってんの?」と凄まれたり。仕事のミスのたびに椅子を蹴られたり机殴られたりしていました。
「こんな事もできないならエンジニア向いてないんじゃないの?w」と直属の上司に言われたり。バレンタインに趣味で作ったお菓子を配れば「女子に媚びるより仕事してくれない?」と言われ。
ときには無給出社も強制されていました。
残業することは当たり前、ミスは人格否定。

ここから私は「逃げ」を考えるようになりました。社会人としてダメなんだと自分を責める日々が続き、何もないのに泣いていたり、自傷で手首が傷だらけのまま出社したり、机でODしたりして、今考えても相当追い詰められていたと思います。目が死んでいました。

ちなみにこの会社、とうとう自殺者も出してしまいました。問い合わせても無視されて、社長のブログのコメント欄は閉鎖されています。落ちるところまで落ちたな、という感想しかありません。

「私は仕事ができない」「社会人として役に立っていない」そんなことばかり言われ続けて追い打ちのように執行役員に言われました。「ダウン症かと思ったわwwww」と。
彼がそう笑うと、周囲の営業部社員と一緒に私を指さして笑ってきました。今は憤りを感じますが私のメンタルはガラガラと「社会不適合者の烙印」を与えられたと同時に崩れていきました。ダウン症の方にも失礼ですし、私を何だと思っていたんでしょうか、あの役員さんは。
社長にSNSを監視されて呼び出されたときも「リストカットなんてしてないで友達に相談すればいいじゃんw」と鼻で笑われていたのでもう無理だと感じていたのも覚えています。この手の人には何を言っても無駄だと。

学生時代、交友があまりないですし、社交的ではないので友だちに相談ということもできませんでした。友達という友達がいなかったのです。

この頃が一番自傷が多かったです。
首を吊ろうとしたり、駅のホームから飛び降りようとしたり、会社や駅の階段からふらっと落ちたり、リストカットなども。
親には散々迷惑をかけました。ODをして倒れたときは看病してもらい、リストカットをすれば掃除をさせていました。成人しているのに情けなかったのですが、それ以上に働くことも生きることも辛かったです。

私は段々と会社を休む日が増えました。体調が悪く行けません、そう何度部長に電話したことか。
そしてとうとう、某日の朝。あ、行けない、無理だ、働けない。唐突にそれしか考えられなくなりました。親に相談もせず、始業時間付近で人事部長宛に電話をして「辞めます」と告げました。あっけない終わりでした。

今なら、労基署に駆け込むための証拠集めや録音など入念にやろうと考えて会社に徹底抗戦なども考えますが、その時の被害者は相談できる人がいないとそんな事考える余裕もないですよね。

そんな経緯で1社目は終了しました。
今から会社と戦おうにも、時効です。(弁護士にも聞きましたがもう意味ないとのことです。)

独立に至った経緯(社会人2社目&副業)

1社目から逃げた後の話です。
衝動的に辞めてしまったは良いものの、転職先は探さなければ、と思って行動し始めました。それと同時に空白期間でなにかしたいなとも思っており、子供の頃の将来の夢である「先生」になるために大学卒でなくても良い塾を探していました。

塾は見つかりました。塾の名前と私の名前で姿も検索されてしまうのでどこの塾かは明言しません。ただ、話の中でひょっとしたら分かってしまうかもしれないです。。
塾は楽しかったです。制服に袖を通して子どもたちを迎え、勉強を教えて親御さんともコミュニケーションとって。前職になかった楽しさを感じていました。室長もとても楽しい教室づくりをしてくれていたこともあって本当に、本当に楽しかったです。

塾ではいじられキャラでした。私の体型のこともありいじられていたし、私より背の高い女性講師もいたことから、小学生から「なんで女の人より背が小さいの!?」なんてケラケラ笑われていました。それと同時にとても仲良くしてくれて、私が面倒見てくれないと塾に来たくないという生徒・親御さんまで居てくれて本当に感謝しかありませんでした。

ただ、塾は結局「アルバイト」扱いなので長くも居られません。正社員で働けるところは探していました。そして見つけたのが某SES企業でした。よくある、「未経験者はコールセンター・キッティング・etc」というSESでしたが、私は経験者であり実力も伴って普通にエンジニア職として常駐先での開発業務が決まりました。

現場1

開発したり、社内SEみたいなことしたり、お客さんのところに電話したりとオールマイティにこなしていました。
幼なじみがプロパーとしていたことには驚きました。その子的にはこの現場はブラックだそうですが、私はメンバー的にとても楽しくやれていました。とは言え、がっつり開発ではなかったので、1年くらいで退場しました。

現場2

ERPの開発会社への常駐でした。所謂Sierでかっちりした会社でしたね。リーダーポジションで教育などもさせていただいていました。私がプログラミング教えていた人も入社させて面倒見ていました。
ただ、ここで年収の低さ、田舎のSierのかっちり度合いに疑問をいだいていました。当時、並行して塾もプログラミングスクールの講師もしていましたが、本職の現場は開発端末がネットに繋がらないなど不便も多く、手取りは20万もいかないのが現状でした。私は何故か自分はここで終わる人間じゃないなと不思議な自信を感じていたので退職しました。

退職

結局は営業と揉めました。お前なんか他で通用しない、実際のところプロパーから評判悪かったんだからな、と捨て台詞を散々もらって退職しました。これはまあいいとします。私はここにおいては後ろを振り向かずに前だけ見ていました。

同時に塾も退職しました。これは本当に後ろ髪を引かれました。先生、って呼んでくれる子どもたちへの責任や愛情もありましたし、教えることの楽しさも感じていたので、自分の今後の人生のために退職というのは心苦しかったです。

どこかの会社に属しての勤務は以上になります。

フリーランス

退職した後、独立しました。不思議と不安はありませんでした。最初の顧客は単価55万だったかな。スタートアップの企業のシステム改修を準委任での業務委託の案件をもらいました。それがスタートです。フリーランス歴も4年目を迎えた今は月商130万以上をキープしております。

この間も私は精神科に通院し、精神安定剤や抗うつ剤を投薬しながらの生活です。これがないと常にネガティブのスイッチがONになってしまい、ストローク(自分へ向けられた言動)のすべてが自分への攻撃だと感じてしまうのです。なので、薬でセロトニンを増やして仕事ができるレベルに引き上げて一般人の仮面を被ります。

直近はうつに加えてADHDの診断もされました。10年以上も精神障害と付き合っているのです、また加わったな、と少し笑いました。

エンジニアとしての経歴

私がエンジニア、というよりコンピュータ・IT業界に足を踏み入れたときのお話です。
PCを初めて触ったのは幼稚園の頃でした。父がもう使わなくなったWindows95をおもちゃのように使っていました。

中学の頃、プログラミングに触れたときは、理由は忘れましたが何故かC++から始めました。案の定、ポインタで躓いて挫折しました。中学の初めの方で父のタイピング速度は越していました。

機械を分解しては戻して、を繰り返すのが好きな父だったのでその方面では英才教育だったのかも知れません。

C++に挫折してもPCはやめずに、HTMLとCSSを学んで、母の友人の店のホームページを幼心のままに作ったのを覚えています。デザインセンスはなかったので背景真っ赤なお惣菜屋さんになってしまいました。

不登校の私を見かねた電気工事士の父から分厚いアマチュア無線の教本を渡され、進数計算とか情報処理のこと、機械のことに詳しくなりました。

高校時代はエンジニアと無関係な話ですが英検2級と漢検2級取りました。地味~、ですね。
私立の高校だったためお金持ちが多く、みんな私立の大学に進学する中、私はこれ以上親に迷惑かけられないという思いと、くだらないプライドがあって国公立を希望していました。ですが、進学校でもなければ単なる頭の悪い高校。所詮、中学校時代に出席日数も成績もないからという理由であてがわれた学校なので行ける国公立はありませんでした。教師からも浪人を進められ、そのまま一年浪人生という名のフリーターへ。
本来は数学教師に成りたかったのですが、浪人生活中も自分の頭の悪さに呆れ、挫折しました。そこで思い切ってコンピュータが好きなのでそっちの専門学校に方向転換しました。
専門学校では成績優秀者として常に居させてもらいました。学生ながら、ときには教鞭をとったりしていました。国家資格である基本情報、応用情報取りながらその他の民間資格取ったりしており、プログラミング言語は5種類ぐらい同時並行で学び、情報処理試験の内容詰め込んだりしていました。とても充実していたなあ、と今でも思います。後悔はしていません。

ちなみに、専門学校のときの友人と昨年末に忘年会したときは「お前はいつも真面目過ぎて人に弱音吐けないからいつも心配してたんだ」と言われて、友達のありがたさを感じていました。そして彼らとは在学中「この仲間内の中で誰か会社作ってその会社で働いたりしてな笑」なんて言っていました。

法人化への決意

今のところ、税理士と相談中です。役員報酬の額によっては法人化を諦める可能性も0ではないですが、どうせ会社員を辞めた人生、自由にやってみたいと思います。今のところ7月には会社が設立される予定です。
いじめで不登校だった中学の時。皆勤で成績優秀者とちやほやされるものの、卒業後の世界とのギャップに打ちのめされた高校生の時。パワハラ、人格否定で精神を壊されていた会社員のとき。私が起業するとは誰も思わなかったです。

ひとつ、やってみたいのは教育の道です。教員免許は持っていないのでできないですが情報処理の教育というプラットフォームを作ってみたいです。

鬱、ADHDと診断されて精神障害者のレッテルを貼られても働ける希望、起業できる希望になれたら良いなと思い、そんな人達に優しい会社にしていけたらなと思いました。
とりあえずマイクロ法人からスタートです。当分は自社サービスの売上なんて見込めませんし、フリーランスの今と働き方は変わらないでしょう。

もう30歳。まだ30歳。勉強は止まりません。結婚してもきっと自分の時間を作って相変わらずストイックに勉強しているでしょう。頑張ります。

その後

2023/07/03 、法人設立しました。株式会社EduITです。Education + IT、です。名前読みにくいな~とちょっと考えましたが、最悪変えればいいなと楽観視してます。本当は07/01が良かったのですが、土曜日で登記ができませんでした。
2023/12 現在、受託した案件に負われています。お客さんと1から話しながらERPをひたすら作っています。開発はとても楽しいですね。税理士さんもとても頼りになります。
まだ投薬治療は続いており、睡眠薬がないと寝付けなかったりしますが、これもまた自分との付き合い方だなってある意味達観してます。
これからも自分のやりたいようにのんびり生きたいな。

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