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かゆいところに手が届いていないんですよ!

皆様お久しぶりです!

最近は、卒論→院試という怒涛のスケジュールが続いており、勉強に集中していました。と言えば…本当ですし、と言えばうそになるかもしれません。

なぜか?自分が本気だったのかいささか疑わざるを得ないんです。

人から見たときに、僕はよく頑張っていると評価をしていただけることが多いんです。もちろん、僕の根底部分は「愛について考えよう」とか「教育についてここの部分に問題があるので変えたい」という思いがあります!(なので、イベントを次々立てたり、各所に出向いては「愛の伝道師」と名乗っていますが)その思いを皆様に伝えた際に、「あなたはきっといい先生になりますよ!」とか、「愛について考えたことなかった!ぜひ教えてほしい」と肯定的な評価をいただきます。そうしたお言葉は本当にありがたいのですが…

ただ、それで僕は「愛」について語れる資格があるのか、「教育」について語れる証拠があるのか、疑問に感じざるを得ません。僕はその評価に甘んじている部分があるのも事実です。

過去の回想

どうして、そんなに甘んじていると感じるのか?これは過去の成功体験からかもしれません。以前から、僕はそれなりに指示されたことやノルマはこなしていましたし、それによる成果もそこそこ出していました。だから、僕は世の中をなめてかかりました。

「この俺は自分の願い通りになんとかかなえられる」と。

必要最低限の努力はしますが、その努力程度で「何とかなるだろう~」と考えていました。その結果、大学入試で散々な結果となったのです。当時は、滑り止めで受けていた私立大学も補欠合格というまさかの結果でした。

そのとき、両親から言われました。

「あんた、世の中を甘く見すぎよ。そういう風に油断した結果がこれでしょ。あんたどうするの?なんとかしなさいよ。」

これを言われたときは猛省しました。そこから必死にあがいて、無事大学入試は合格しました。そして、その時以来、「何度も確認する」(念には念を入れよということで、何度も取り組む)「なめてかからない」ことを意識していました。

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さて、そこから時は流れて…大学で単位取得の試験の時。大学では、数学の教員になるために、単位を取得しないといけません。そのため、代数学や幾何学、解析学などの授業を取っていました。当然、そのテストは数学の問題を解くことがメインで、計算できれば合格です。ただ、その時も、「単位だけ取れればいいや~」ということで、そこまで本気に勉強していませんでした。授業で扱った内容を理解する程度で、そこからさらに奥深くまで入っていませんでした。それでも、要領が良いのか、運が良かっただけなのか、テストは難なくクリアできました。また、それで世の中をなめてかかりました。僕はあのときの出来事(大学入試)を猛省などしていないことに気付きました。”喉元過ぎれば熱さを忘れる”とはこのことでしょうか・・・?(笑)

「最小限の努力で手に入れられるほうがいいじゃん!」と。しんどい思いをせずして、楽して点数を取れることにある種の快感を抱いていました。

過去の回想から今を見ると…

さて、そんな快感を抱いていた僕が4年ぶりに入試をしました。

大学院は数学ではなく、僕がかねてより興味を持っていた「愛について(心理学について)研究したい」ということで、心理学の専攻を受験しました。(僕が学んでいる内容については、2月18日(金)の愛の伝道師プロジェクトに参加いただくと分かると思います)

学部では勉強していなかったので、独学で勉強していました。先生から「勉強しておきなさい」と伝えられた7冊ほどの本に加えて、個人的に自分の進学する心理学の知識について書いている本を読んで、ノートにまとめていました。大学時の期末テストのようにちょっとだけ振り返っておけばOKというわけではありません。理論を理解して説明できなければなりません。(口頭試験もあったので)

いよいよ本番を迎えました。口頭試問で大学院の先生2名との試験が始まり、「志望動機」「研究したいこと」「卒業後はどうする?」という事が聞かれました。それはある程度想定していたので、答えられましたが、やはり、先生からの違う角度からの質問(例えば、これって○○やけど反対意見として××があるねんけど、それってどういう風に乗り越えたらいいんかな?などの学問的なことについて)を言われたとき、暗記していたことを自分なりの言葉で組み立てて答えましたが、しっかり答えられたという印象はありませんでした。なんか、言葉をつないだような印象でした…。

そして、一通りの口頭試問を終えた後、大学院の先生から次のように言われました。

「君のやりたいことのイメージがはっきりしてきました。筆記試験の内容も見ているとね、勉強されているんだろうとは思うんですけど、かゆいところにちょっと手が届いていないんですよ。だから、もう少し、勉強してみて、なぜ私の研究法でないといけないか、私の研究法を導入することの強みを説明できるようになると、より君のやりたいことと「愛」「道徳」の概念が絡められると思います…」

それを言われた際に、はっきり気付きました。「あ、勉強はしているけど核心的ではなかったんだ」と。

勉強の方向性が悪かったわけではありません。単純に、僕の勉強に対しての認識が甘かったんです。大学生として表面しか見ていない勉強をしたことで、また同じことをしたんです。本当に「喉元過ぎれば熱さを忘れ」ていたんです。この大学院の先生の発言は「合格」「不合格」どちらを意味しているのか、それははっきりしていません。(すべては来週金曜日に明らかになります)

今まで何でもこなせること、そして最小限の努力で最大の効果量を出すことが大事だと考えていました。勉強も、何でも知っていること(興味のある学問の枠を超えてマルチに知っている雑学王的なイメージ)が大事だと考えていました。でも、それは違うな…と。

浅く、広くではなく、狭く、深く知らないといけない。

つまり、今回なら心理学について聞かれたら、完璧とまではいかなくてもある程度核心に迫った答えを出せないと意味はないんです。それは広く、浅くではできないなと感じました。

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僕は本当に変わらないといけないんです。それほど自分が楽できるほど勉強できていたのか、それほど理論的に精通できていたのか、そして、周囲の人間が度肝を抜くように勉強していたのか。これを書きながら自分に問うています。泥臭くこなすことで初めて核心に迫れるのではないかと考えています。スポーツ選手がそのスポーツと1日中向き合っているかのように、僕も「愛」について「教育」について1日中でも向き合っておかないと、伝道師と言われるほどの境地にはいけないなと考えています。

そうして様々向き合った先に、はじめて概念として理解できるのではないかと考えたそんな1日です。



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