”人として”とはどういう状態か??

皆さんこんにちは!愛の伝道師です!

今日は教育の目指す人格形成とは何かを考えてみたいと思います。

さて、早速ですが、以下の歌をご存じでしょうか?

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※僕のイベントで使った資料から持ってきたので、行がそろっていませんが、その点はご了承ください。

※このリンクを押していただくと、どんな歌かわかるかと思います。https://www.youtube.com/watch?v=GSlUEZ3CbK4

この歌は海援隊の「人として」という歌です。随分昔の歌なんですが、3年B組金八先生 第2シリーズの主題歌でもあります。(『腐ったみかんの方程式』というフレーズがありましたね((笑))当然、僕はこの金八先生第2シリーズをリアルタイムで見ていたわけではありません。しかし、この歌を知り、自分の将来の教育者としてあるべき姿が少しはっきりしてきたような気がしたのです。それは…「愛をもって、”人として”この世の中で生きていける人格形成のサポートをしたい」という気持ちです。

この歌詞からいくつか考えたいことがあるのです。

1つ目は、『ヒトとして』ではなく、『人として』生きるとはどういうことなのか』ということです。なぜ、あなたは人として人生を歩み続けるのか、どうして、あなたはこの世に生を受けたのかということです。

私たちは様々な動物や植物と共存しています。その中には、私たちよりもものすごいパワーを秘めている生物がいます。しかし、それでもあなたは『ヒト』としてこの世に生を受けました。そのあなたは、この先長い人生の中で、どのような道を歩き、どのような人生にしたいと願うでしょうか?

各人の生き方について僕が言及し、それはよい、それはだめ、と判断するようなことはしません。僕が教育者として、現場に入ったとしても、同じです。子どもが自分で人生の価値を見出し、生きる意味を見つける、ことが大事だと考えます。

なぜ、人間は生物ピラミッドの中で頂点にいるのか、それはヒトは言葉を持ち、その言葉によって、分析し、連綿と受け継ぐことが出来るからです。

この歌詞の中でも分析する視点がありますね。『~と気付く』というフレーズ。これは他の動物には決してできません。人は過去を振り返ることが出来るのです。ヒトだとできないかもしれません。このヒト→人へと変わるというのは、一つは『気付く』『振り返る』というのがあるのだと考えます。

次に、『ヒトは人になる中で、自分らしくあろうとするということ』です。1番の歌詞の中で『思いのままに生きられず』、2番の歌詞の中に、『鳥のように生きたい・・・翼は愚かな憧れと気付く』とあります。この歌詞からも、動物とは一線を画している自分の姿に肩を落とすイメージがあります。『本当は、あの鳥のように自由に翼を羽ばたかせたい』という思いがあるのです。しかし、ヒトはそれができない。なぜなら、ヒトには足があり、鳥のような翼をもっていないから。

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ただ、人はそれに気づいた後に、自分なら何ができるかを考えます。鳥のように生きられないけど、私は隣にいる人を大事に思ったり、人と衝突したり、いくつもの困難を乗り越えながら人になれることができるじゃないか、と。そして、”人として”『愛』を受け取ったり、与えたりすることで、人になるではないか、と考えるのです。

ヒトが人になるには何が必要か、それは言語と教育、そして愛なのだと考えます。教育の目標の中に、『教育の目標は人格の形成である』と書いています。しかし、この人格に関して、なかなかに広く、そして、人によって千差万別なので、これと決められないのです。だから、教育者一人一人の考える人格を子どもに教育という形で与えていくということ、そのためには、教育者が『人格』といわれるものに何かしらの輪郭を自分で持っておくこと、これが大事なのだと考えます。

『愛』を強調するのは、『ヒトは愛によってでしか人にはなれないから』です。人は愛を『愛の銀行』に貯めます。それを貯めたり使ったりしながら、『人として人と出会い、人として人に迷い、人として人に傷つき、人として人と別れ』るのです。しかし、そういったことをしながらも、『愛』がそこにはあるのです。『愛の銀行』は赤ちゃんの時から死ぬまでずっと持っています。その出入は頻繁にありますが、それでも愛によって人は他者と仲良くなり、結婚し、幸せになる、のだと考えます。

他者といっているので、人でなくてもつながることが出来るのです。動物に対して愛情を持つこともできるし、アニメのキャラクターに恋をするのも構わないのです。しかし、どこかで気付くのです。『そうはいっても人にしか本当の意味での『愛』を受け取ったり、与えたりはできない』と。それで、また人とつながろうと頑張る。それが人らしくある、という事なのだと考えます。

もし、孤独な人というレッテルを貼られ、寂しく感じている人がいるなら、その人も本当は『愛』を欲しいのかもしれません。しかし、傷つくのが怖かったりするので、『愛』を素直に受け取れない。それならば、与える側の人間が恩着せがましく無条件に与えるのではなく、今、目の前の人がどんな愛を欲しているのか判断し、与えればいいのです。

僕が教育において『愛』が必要だといった理由はこういう事だと、2021.9.13時点では考えています。もしかすると、この根底が微妙に変わることもあるかもしれないので、その時はまた更新します。

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