「自由が上演される」から生徒主体を考える

渡辺健一郎氏の著書「自由が上演される」の第1章・第2章を読みながら、"生徒主体"について考えてみたい。一応最初に断っておくと、最後はいつものごとく文化祭の話になるのでご容赦いただきたい。

「自由が上演される」って何?

演劇と教育に関する本で、俳優業や演劇教育をしている若手の渡辺健一郎氏による著作。以下、コピペした紹介文。一番わかりやすい。

「自由」は教えられるのか。
参加者の「自主性」と「主体性」を引き出すとされるワークショップ。しかしそこでもある種の「権力」は生じうるのではないか。教師からも環境=アーキテクチャからも強制されない「真の自由」は可能か。プラトン、ランシエール、平田オリザ、國分功一郎、ハイデガー、ジャン=リュック・ナンシー、ラク―=ラバルトらのテクストを援用し、演劇、演劇教育から日常のコミュニケーションまで射程に入れた画期的自由論。
教える―学ぶ関係の非対称性、ケアにおける暴力性、ハラスメント、中動態と政治、声と不和、俳優と観客……さまざなトピックから現代における自由と倫理を問う大型評論。

第65回群像新人評論賞受賞作「演劇教育の時代」を大幅に増補、書籍化。

講談社BOOK倶楽部の内容紹介より

片っ端からやっていくとただのコピペになってしまうので、結局いまの演劇教育とかワークショップで問題になっているのってここだよね、というところにフォーカスしてみたい。1つは「教えることの"暴力性"」、もう1つは「実在しない"ニーズ"」だと(僕は)読んだので、その後の論理展開のためにまずはまとめたい。本文中ではいろんな人の言葉を引用して論理構成しているが、内容だけまとめていく。

教えることの"暴力性"

体罰といった物理的な暴力はさておき、教師が生徒に対して教えるという行為そのものがパワーを働かせる行為である、と。それがそもそも許されるんか?という話である。現代ではそうしたパワーを縮減する方向に舵が切られてきた。

昔を眺めると、フーコーの「規律訓練型教育」がある。普通の教室でみんな前を向いて授業を受ける。その時に教師が監視している(かもしれない)と思うことによって自己内省し、規律というものを内面に身に着けていく、という在り方である。それが「権力者にとって都合の良い従順な主体を生み出す」から良くないよねという話で、近代学校批判になった。

一方で、ドゥルーズは生徒自己内省なんかしないでしょ、と規律訓練型教育が時代遅れだと批判した。支配装置としての学校はもう意味なくて、人間個人の行動選択の過程なんてどうでもよくて結果を管理すればいい、デジタルデータとして人間を直接的に物理的に支配する方が効率的だよね、と「環境管理型権力」を提唱した。

そんなディストピア嫌なので、学校で人間性をやっぱり教えなきゃいけなくね?と回帰してくる。

そんな折に「ワークショップ」とか「アクティブラーニング」は一つの回答となった。教師のパワーをなるだけ少なくしながら、「善いもの」をもたらしたい。学習環境を工夫することによって、生徒の主体的な学びの障害を取り除き、"自由”な学びを実現しようとした。しかし、「自由であれ!」と教員が言ってしまうことはそもそも矛盾であるし、本当に自由過ぎては困ると心の底では思っているダブルバインド状態に陥ってしまっている。これが筆者の言う「自由促進型権力」である。

このような、場に介入することで「自由を尊重する」という態度をパフォーマンスするポジティブな権力、これを自由促進型権力と呼びましょう。

「自由が上演される」p.24より

結局、ワークショップだろうがアクティブラーニングだろうが、教員が教員である限り、生徒との非対称的な状態は続くのであって、自由促進型権力もパワーの行使にほかならず、逆にその教員-生徒の非対称性を(無自覚に)隠してしまっていて良くないんじゃないか、上演の上演性って大事だよねと本書では続いていく。

実在しない"ニーズ"

こっちはもう少し単純な話で、「ちゃんと向き合えば生徒の隠れたニーズが必ず見つかるはず!」というのは幻想だよねという話である。一般的な大人のニーズであればまだしも、こと教育においては生徒のわがままを全部聞いていてはその子のためにならないのは明らかである。さらにはニーズの結果は未来の話であり、不幸にしてしまう可能性も常にある。
そうした生徒のニーズを推察し、満たそうとするときに否応なしに"暴力性"が発揮されてしまう。

そして、筆者は2章中盤でこう述べる。

教育を放棄するのでもなく、教育の暴力性に居直るのでもなく、それでもなおどのような教育を考えることができるのか。教育をめぐる問いはここから始めないわけにはいかないのです。

「自由が上演される」p70より

なるほど、では考えてみよう。

教室にいる限り、生徒主体はありえないのでは?

いきなり居直ってしまった気がする。とはいえ、教室という場に教員と生徒が存在する限り、教員-生徒の非対称的な関係は存在し、そこにパワーが働いてしまうのは仕方がないことではないだろうか。

少なくとも教科教育においては、カリキュラムが存在し達成しなければいけない短期的な目標が存在する。総合学習や演劇ワークショップでも、最低限のクオリティを保証しなければならない(学級崩壊して授業にならなくても、それがコミュニケーションだというのはさすがに無いかな…)。とすれば軌道修正をかける教員のパワーが生徒に直接かかり、生徒はその教員のシナリオに意識的にでも無意識的にでも乗らざるをえない。

まあ、そもそも主体的な学びは「一人で図書館に籠って大学教授になりましょうね」というトンデモな話ではない。受動的な授業に対して、生徒が自分の意志をを持ってやった方が定着しやすいよねというぐらいの話なはずだ。その方向の主体性であれば、教員の腕次第でどうにでもなるような気がする。(そして、その方法論自体はあまたの先人たちが実践してきたはずだ。)

では、真の主体性は存在しないのだろうか。

学校における主体性の所在

最近注目されている、探求活動はどうだろうか。なるほど確かに教室や授業時間の枠を飛び出して、自分の好きな研究をするというのは素敵な話である(ここではSSHの取り組みや理数探求を念頭に置いている)。もちろん教員のガッツリ指導のものにやられる取り組みは少なくない気がするが、飛び抜けた高校生が学会で発表したり、助成金をもらって研究するようなこともままある。どうやってそれを動機づけるんだという話は置いておけば、確かに主体的である。しかし、とても属人的で再現性は無さそうである。また科学者としての主体性は育まれうるが、結局個人プレーに過ぎず、社会性とかコミュニケーションとかは伸びにくくないか?と個人的には思う。(概してハミだした子たちが多いかもしれないが)

では、総合学習はどうだろうか。なお、最近は総合的な学習の時間から探求的な学習の時間に名前が変わったそうだ。内容は学校によって様々だが、例えば地域の商店街や企業の商品開発と連携した取り組みは面白そうだ。多くの場合その学校の目玉授業になっている気もする。学校の教室を飛び出して、グループメンバーと一緒に発表日に向けて準備を進めていくというのは、これもまた主体的な活動と言えるかもしれない。しかし、大人が準備するものである以上、ある程度明確な目標が定まっており、かなり厳密なスケジュールが組まれていて、そこで頑張るしかないのだから自己効力感がどこまで保たれるのか不明である。目標を高くしないようなキャリア教育っぽいもの(大人にインタビュー的な)であればまた違うかもしれないが、そうすると今度は学びの質としては不十分な気がする(学びのきっかけとしては最適かもしれないが)。

課外活動に目を向ければ、部活動もある。部活動の在り方も様々だが、全国大会を狙うガチめの運動部であればコーチによるガチガチのメニューが組まれているであろう。コーチが存在せず、自分たちで練習メニューを決める運動部であればTHE・主体性かもしれない。文化部も自分の趣味を深めていくという点でモチベーション高く、"主体的"にのめり込んでいくことができるのかもしれない。ただ残念なのは、趣味を極められるほど環境の整った部活動は少ないことと、大人の手を借りなければあまり質が高くはならないことだろう。(部活動については本当に千差万別だとは思う)

留学外部コンテストもある。学校で募集がかかり、個人ないしグループで応募するものである。募集告知という教員のパワーのみ(時に熱烈な勧誘かもしれないが)で後は生徒自身の決断によって物事が進み、外の力を借りて高いパフォーマンスを発揮するという点ではとても主体的な活動である。惜しむらくは、学校教育としてはどうなんだというところである。外へ眼を向かせ羽ばたかせるのも教員の仕事だとは重々承知しているが、学校で同程度のコンテンツを用意できればなお一層良いよなぁとは過度な期待をしてしまう。外での活動は、学校内の活動がおろそかになるし、学校不要論にもなりかねないのも気がかりだ。

結局ここまで来てみると、僕には主体性に大きな共通項があるように思えてならない。それは、「教室」という枠を飛び出し、「教員」という存在を消し、かつ「高い質」を同時に達成することではないだろうか。

まあそれはそうで、教員の存在がなくなれば、教員-生徒の非対称性なんてものは端から存在せず、パワーどうこうの話は無意味な議論である。もちろんそうした"自由"と学校としての管理の問題、生徒の活動の質の高さの問題がトレードオフとして存在し、そこのバランスをいかに高いレベルで調整できるかという話なのであろう。

さて、ここでお待ちかね文化祭活動である。正課の一つ、特別活動に生徒会活動と並んで行事教育があり、その中の文化祭である。上の要件を100%満たすものでは決してない中間択ではあるが、それでも良いバランスで実現しうるものだと個人的には思っている。

特別活動(文化祭)の優位性

余談だが、特別活動は実は日本特有の文化らしい。学校行事や学級活動、委員会活動をここまでやるのは日本だけで、欧米ではやられていないというのである。

特別活動は他のどの教科・活動からも迫れない生徒の主体性を実現するものだと信じている。それは以下の5つの側面を持つからである。

  1. 教師-生徒の非対称性を健全に破壊する(権力の呪縛から解き放つ)

  2. 学校全体、かなりの生徒を巻き込む(学校教育としての善い姿)

  3. 社会性、コミュニケーションを要する(社会性・人間性の獲得)

  4. 終わりが明確に存在する(わかりあえないものを、どうにかする)

  5. 生徒にとって魅力的で、切実である(内的動機づけ)

ここで一つずつ語ると字数がいくらあっても足りないので、それはいつか書くとして、この5つを満たすのは文化祭ぐらいなんじゃないかと思っている。先にあげたものは本質的にどれか欠けてしまっているはずである。

もちろん、文化祭指導も天から地まであるので、生徒の主体性のかけらもない「教員管理(生徒観客)」型の文化祭があるのは知っているが、それでは意味がない。生徒を前面に立たせつつその実教員が全部計画を作っているような「生徒主役」型の指導でもない。生徒が考えて実行しようとさせる「生徒主体」型もいいが、それだと「基本的には教員主体なんだけどね」感が抜けず、教員-生徒の非対称性が残り、教員が生徒を教え導こうという教育的意志が見え隠れしてしまう。可能であれば「生徒自治」を実現して、生徒を一大人として扱い信じて任せるということをさせたい。生徒と教員で約束を交わし、自治を獲得するのである。そこには一種の契約関係こそあれ、自由促進型権力のような呪縛は存在しないはずだ。生徒を信じすぎる、または生徒自治が風化すると「生徒放任」になるが、それだと生徒は逆に何もできなくなってしまうため望ましくはないだろう。

※一度放任状態になると自治に戻すのはものすごく大変な気がする。自治の信条や技術を失った生徒はかつての栄光すら知らないため戻そうとすることはできず、新しく作り出そうと革命を起こすほどの熱意も技術も無い。逆に教員がやろうとすると一時的に生徒主役・生徒主体のレベルに下げて運用しなければいけない。教員にとっても負担であるし、生徒の自主性に任せてきた文化に鑑みてそれを実施するのは相当な覚悟が必要になるだろう。
※そして、コロナで文化が途絶えた学校では今まさに問題になっているような気がしてならない。

おわりに

5000字超えてしまったので筆を置こうと思うが、最後にニーズの話を全くしてないので、そこだけ。

特別活動で教員を排除した世界においては、生徒-生徒間の刺激がメインになる。それは先輩-後輩かもしれないし、文実-クラスかもしれないし、同僚-同僚かもしれない。なんにせよ生徒間のコミュニケーションによって学びが生まれていく。教員から押し付ける「知」ではなく、自分たちの関係性の中で、時にはドロドロしながら学ぶものである。学校・文化祭という社会の縮図のような環境で学ぶ生きた「知」が、役に立たないものなはずがない。教員が勝手に推察するニーズよりもはるかに素晴らしいものを生徒たちの関係値によって獲得するのではないだろうか。

まあ、そんな環境を作ることが超大変なのだが。

本当の最後に、敬愛する恩師からいただいた言葉を紹介する。

(前略 担任の仕事は)友達同士の人間関係を丁寧につなぎながら、友達の力を借りて自信を持って自分の足で(生徒が)立てるようにすること。子供たちが自主性を発揮できる場を担任が用意する、というのはそういうことですね。生徒の自治はその先にあります。(後略)

恩師の言葉(2021)

生徒自治を語っていた僕への戒めの言葉でもある。この言葉を頂いてから生徒と生徒をつなぐような環境づくりが大事であるし、生徒にちゃんと刺激を与えられるのは生徒だけなんだろうなとも肌感覚で思った。
同時に、生徒に直接ノウハウを叩き込んで高い自治をさせるのは最優先ではないなと考えを改めた。まあもちろん生徒自治の実現のためには、多少の振り付けなり、思想的なパンチは否応なく必要にはなってしまうのだが。そこはもう少しいい方法を考えていきたいと思う。

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