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今必要なのは、子どもを真実に愛する心で行なう教育

 最近、学校の生徒を見ていて、いくらお金をもっていたとしても、親が子供に与えるべきは『愛』なのだなあと強く感じることがある。

 現在の勤務校は私学なのもあるが、かなり裕福な家庭のお子さんが多く、世間的に見れば羨ましがられる御子息であることは間違いない。きっと私は全く知らない世界があるのだろうし、金銭的に見れば非常に社会的優位なご家庭が多い。さぞ幸せなご家庭だろう、と思われると思うのだが、どうも公立学校で接していた子供たちよりも、どこか素直さに欠け、どこか愛情不足を感じさせる子供たちが多いのが気になっている。どこか、可哀想な感じがしてしまうのだ。

 例えば、様々な物事につけ、私の関心を引こうと大きな声をあげたり、はたまた自分は英語ができることをアピールしようと、嫌がらせかの如く”I cannot speak Japanese.”と突然発言して、それまでは積極的に参加していたのに、全くそのあと授業に参加してくれない子がいたりする。はたまた、ほかの子は「先生がいるときはできるけれど、一人ではできない」と駄々っ子のようなことを言いながら、自力解決していく力、自走していく力が極端に弱かったりする。

 毎日の授業の中ではこんなことがたくさん起こるので、中学生とはこんなものだったろうか、と悩んで、正直少し疲れてしまうことも多い。また同時に、自分が彼らに、「教師の言うことを聞いて、積極的に学ぶ生徒」であることを求めているということを痛感し、私も少し強権的になりつつあることを感じて、気をつけなければ、このままのアプローチではいけない、と自分自身にも少し失望するのだ。絶対に何か噛み合っていない部分が存在する。

彼らに求める理想像と、現実に彼らがありたい像、wantがずれてしまっている。

 子供と対話する中で、本当に家庭が裕福であるというのを感じるのだが、同時に彼らがものすごく「勉強」ができることを親から求められていて、学ぶことが本質的に好きではなくなっていることを感じる。もちろん、楽しんで学んでいる生徒も多いのだが、どこか「やらされている」ところが強い。

 彼らの姿を見ていると、『脱学校の社会』でいう強制的に「学校に縛られている子ども」に見えて仕方がないのである。本来の彼らの「姿」を親御さんは見ているのではなく、彼らが「何かが出来ること」「有能であること」を求めてていて、そこに「存在すること・あること」“being”を認め愛しているところからは少しずれてしまっているかもしれない。

 なにかができるから子どもを愛するのだろうか。もちろん親だから、子どもになにかできるようになってほしくて、幸せになってほしいという思いがあるというのは分かる。けれど、「なにをしていなくても、なにかがなくても、生まれてきてくれたことに感謝だし、それだけで十分だ。あなたがいてよかった」と伝えるだけでも子供は十分に成長してくれるのではないかと感じている。

親御さんに求めるのは簡単だが、私は、その心で子供に接することができているだろうか。「本当にあなたに出会えてよかった。居てくれてありがとう」という心を、子供を愛する心を実践できているだろうか。今数学という教科に携わっている特性上、どうしても出来不出来が出てきてしまうが、「できなくても構わない、それでもあなたがいることが大切だ」と十分に伝えることができているだろうか。

 恥ずかしながら、現在、自分に対して反発しながら成長していく子供に腹もたてることもあるし、失礼な態度で接してくる子供を本当に心から愛する心で接することができているとは言えないのが現状だ。また、愛情を求める生徒に、本当に愛情で接することができているとは言えない。

まず私から変わらなくては。人のせいにはいくらでもできる。

 この文章を書く中で、教科通信を出してみようと思いついた。私が尊敬する数学教師の実践に真心で誠実な教科通信がある。それを思い出した。子供たちへの思い、こんな人になってほしいという私の思い。数学をどういう思いで教えているのか。それを子供たちに伝えていくことを大切にしよう。

 愛でなくては、目的をなすことはできない。教育の目的は、子供たちが自ら学べるように助け導くこと。愛情を持って接しているということが伝わらなくては、子供たちを導くことができない。

少しずつ、がんばろう。

子供の姿から学ぶことがある。

教育者であることって本当にむつかしい。

常に変化しなければ。

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