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親子国内留学ー9月の気づき(生活編)

私たちの親子留学も半分が経過した。

期間限定の、この特別な時間。
常に意識して毎日を大切に過ごすよう努めてきた。

やりたいことや気になったことは、億劫がらずにすぐにやるようにしてきた。ちょっとした出会いも、次につながるように自分から連絡先をきき自分の殻をやぶって積極的に動いてきた。多少の出費も、得られる価値を子どもの経験への投資として考えて判断するようにしてきた。

来年はもうない。

いつかやろうのマインドでは後の祭りになってしまうことに危機感をもっているくらいで、人生の充実度はちょうど良いのかもしれない。突っ走ってきた半年を振り返って思った。終わりが見えているだけで、人はこんなにも積極的になれ、こんなにも日常は輝くのだと初めて知った。

ここにいられる時間も終わる。そして、親として子どもと過ごせる蜜のような子育ての時間も。寝顔をみながらそんなことを思う。

最後に、あ〜楽しかった!やり残したことない!最高だった!って思える自分でいたい。

実際には、自分が、そして子どもが半年後にどんな気持ちでいるのかは全く想像がつかない。泣く子を引っ張っていくようなことになっているかもしれない。

今思えば、来るのは簡単だったなって思う。半分過ぎて、ここでの暮らしが日常になるにつれ、去る時の痛みを少しずつ考えるようになった。仲良くなればなるほど。ここが大好きになればなるほど、その痛みは知りたくなかったかもしれない。子どもにも味あわせたくなかったかもしれないと矛盾した考えが浮かぶ。

1年限定の親子国内留学は、ペットを飼うことに似ているかもしれないとふと思う。別れが悲しいから飼いたくないという人がいる、そこも含めて日々の一緒に暮らす楽しさがあるから飼いたいという人がいる。正解なんてない。選んだことに結果がついてくる。ただそれだけ。

最近は、日々のなかで「幸せしかない」という言葉が脳裏に浮かんでくる瞬間が何度もある。幸せすぎて涙がでそうになるなんて初めての経験だ。子ども達が笑っていて、草や木や森や花が美しく呼吸していて、蝶々が飛んでいて、畑をしているお爺さんがが手を止めて笑って挨拶してくれて、先生と校門の前で軽く冗談を交わして、海が輝いていて・・・。

テレビのない毎日は、自分の範疇にないものを何も怖がったり心配することがない。囚われないって幸せだ。あの窮屈だった都会でのコロナ禍を後に、ここにきてやっと息ができるような感覚になっている。人の顔が見えること、表情が見えることが単純にうれしい。

ここにきて、人と地域と共にに暮らすことの楽しさを初めて教えられた。人との心の交流が人生においてどれくらい重要なポジションを占めているかということ。

ある意味、わざわざ都会から過疎地にくるような人たちは、自分の人生に責任をもって生きている人たちの割合が圧倒的に高い。だから、一緒にいて楽しい。精神性が高い。フットワークも軽い。信念を持っている。だから繋がれる。

「どこに住むか」ではなくって、「誰と一緒か」ということが本当に一番大きいように思う。気の合う好きな人たちと一緒なら不便さも困難も笑いに変わる。日常が遊びに変わる。

秋がきて、あんなに毎日のように通っていた海という遊び場が、ひっそりとシーズンを終えていた。子どもにとって永遠に遊べる最高の場所。水着を毎日洗濯していた。夏の間、毎日のように届いていた野菜や果物が急に姿を見せなくなった。自然と共に生きるということは、こういうことかと身を以て経験した。

あの夏の日にはもう戻れない。


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