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親子国内留学ー10月の気づき

2022年4月より親子国内留学中。
子どもの成長とともに、自分の生活のなかでの気づきを綴っています。

自己完結できる便利すぎる環境は、人からコミュニケーションを奪う。

本来人間が必要なコミュニケーションまで。
そして、コミュニケーションのない生活は、たのしみがない。


最近そんなことを強く思うようになりました。

車でもなんでも一人一台のように、一人ずつが十分な量のツールやリソースをもっていると、全てが自然に自己完結できるようになり「人に頼る」という能力が私たちから消えてしまったように思います。

そしていつからか、ただ、人を煩わせてはいけない、自分で解決しなくてはいけない、人を頼ることは甘え、そんな固定観念をもっていた自分に気づき、「本当にそうなのだろうか?」と疑うきっかけに今なっています。

GIVE&TAKEに代表される「助け合い」「おたがいさま」。

十分に物がない、サービスのないシンプルな田舎の暮らしでは、そんな目に見えないやりとりが自然発生して充満していました。

そこにはお金は関与しません。

お金が関与していなから、やってもらって当然、対価が支払われて当然という資本主義の原理はみじんもなく、ただ「ありがとう」という言葉とともに人は「役立ち感」「頼ってもよいという安心感」「助けてもらえるという安心感」「自分も誰かの役に立ったり助けてあげられるという自己有能感」を実感できる優しい世界がありました。


都会の人は今、この根本的な役立ち感や安心感や有能感を満たしたいという欲求を、オンライン上に求め、歪んだ形で表出しているように思えてなりません。いいねに代表されるような承認欲求。SNSでの自己顕示。誹謗中傷。

田舎の人は日々のコミュニケーションでそれらが満たされているから、わざわざそんな事をオンライン上でする必要がない。それが今の私の分析です。

生活はどんどん孤立化し、「個」として生きることがさぞ当然のように思われる現代においても、そもそも『個』として生きる人生はつまらないものなんだと思います。

それは人間がそうプログラミングされているから当然のこと。大人でも子どもでもみんな誰かに認められたり、存在を肯定して欲しいもの。それが原点であり、真理なのではないでしょうか。



よく観察してみると、積極的に暮らしの案内をしてくれる人たちは、一人暮らしだったり、独身や子が巣立っていたり、何らかの寂しさや物足りなさや満たされなさを持っているようにも思えます。そこがうまくマッチして機能するwin-winの移住者と地元民の人間関係。

また、ちょっと下世話な視点かもしれないが、男は女に親切に。女は男に親切にしたいという、生物学的な視点での無償の貢献型コミュニケーションの存在も、田舎では都会よりもっと顕著にみられるようにも思います。



これまで人に頼ることがはばかられるような人間関係の中に身を置いて来ましたが、この知り合いもいない見知らぬ土地に母子でやってきた「私」という存在。

立場的に不利な状態である「自分」という存在が社会的に認められているということを無意識に自覚しているからなのか、頼るという行為を「正当化」して自分に許せているのかもしれません。なんとも強がりで見栄っ張りな自我何だろうと、我ながらびっくりします。

不完全な自分をさらけ出す毎日は軽快です。

知らないから教えてください。
教えてくださってありがとうございます。
また教えてくださいね。

そんなコミュニケーションの繰り返しが、居場所を心地良いものにしつつあります。同時に、たとえ環境を変えて田舎に来たとしても、これまでと同じような自己完結型の生活を追い求めているだけでは、何の変化も刺激も得られないと。今わかりました。環境はあくまでツールで、要は自分なんだと。





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