教育の世界と行政の世界のすれ違いー歴史研究から考えるー

「課題が多い」というより、「できることが勉強くらいしかないから、少し真面目にやるようになった」というのが本音な今日この頃。

就活も気が向かず、オンラインおしゃべりにもどことなく息苦しさを感じ、何を進めるにしてもテキストコミュニケーションの限界を突きつけられている。

そんな中で今惹かれているのは、教育方法学という世界。いわゆる"教育界"の歴史のお話。
キーワードは、最近なら、生きる力、道徳教育の教科化、英語の話す能力重視などなど。遡れば、修身から社会科へ、ゆとり教育、系統主義と経験主義などなど。教育!と言われて、想像つきやすい分野。でも奥が深いことを知りつつある。

今回、どうしても気になったのが、基礎学力低下論争。まあ何かと話題に上がる基礎学力。笑
でもそんなに簡単な議論じゃないんだなぁということを思った。まあとりあえず基礎学力論争にいたるまでの流れを、超個人的な認識でいくと、、、(以下、割と適当です。自分で整理したいのが目的です。)

まず、教育の現代化による系統主義化(一般的な法則を学ばせた上で、効率よく知識をつけていく的な)が起こります。→高度経済成長へ。

そんでそのうち、詰め込み教育、子どもの興味をかりたてることができていない、などが問題に上がります。それで、子どもの生活に根差したカリキュラムの方向性を見出そうとなります(経験主義化)

そのときできたのが、生活科であったり、総合的な学習の時間らしいです。当時のスローガンは、ゆとりと充実を。

でも、この方針を推し進めている中で、学力テストの結果が著しく低下してることが判明。世論も、子どもが漢字が書けなかったり、計算ができなくなっているという風に、一気に批判の嵐となります。

ここがいわゆる基礎学力論争。なはず。はあ、なるほどという感じ。

ここで、教育方法論史というのはそもそも大きく二つの軸に分かれていて、その二つを揺れ動いている。もしキーワードを引き抜くとしたら、系統主義なるものと経験主義なるもの、とでも言えようか。

ここで気になったのは、基礎学力の批判って、特に小学生に向けられてる問題じゃないか?というもの。中高生で基礎学力と呼ばれるものを学ぶことはないんじゃないかなぁと思う。
(もちろん学ぶことはなさそうなだけで、学んではいけないということではない)

なんで小学校教育への批判が、教育そのものへの批判になってる????となった。というか、一緒くたに考えて良いことと厳しいことがあるのではと思った。

もうちょっと問題点を拡大解釈して考えたい。

「なぜ教育方針というものは、小学校から高校まである程度の一貫性を保っている(または、保たなければならない)のだろうか」ということ。
学習指導要領とかね。

冷静に考えて、7歳の小学1年生と、18歳の高校3年生に対する教育方針を一致させることができるのだろうか。僕は、感覚的、直感的に無理だと思ってしまった。

ここが、教育を行政に持ち込んだ時の大きな問題点なのかもしれない。教育を行政化しなければならないときに起きる摩擦が、子どもたちを苦しめてしまうことがある気がする。

統治論と教育論には必ずしも相容れない部分が存在する。そして、両者の言い分も絶対にどちらかが正しいというものではない。がしかし、論点を洗い出すということに、妥協は許されない。

この点で、研究者の存在意義も感じる。歴史を整理したり、比較を行なったりして、それぞれのアプローチで、世の中に必要な論点を作り出す。見出す。それが研究者という立場の人ができる最大の功績なのではないだろうか。

話がどんどんそれてきちゃったので、そろそろおわり。ちなみに今ゼミで勉強してるのは、総合学習という分野です。基礎学力論争は発表を聞いただけというやつ。笑
総合学習を通して、突き詰め続ける問いは、

「五教科では学べない学び」について。

確かに、それはなんとなくあるだろうなと思う。そして、日本の教育はそれに対して、「総合学習」という武器を用いて戦っていく。その変遷は、常に時代に問われながら、形を変えて進んでいく。これがまた面白い。本当に面白い。もし誰か興味あるなら、またまとめてみたい。求められたら、勉強会もしたいな。

しかしその裏で、学校に居場所を感じない、勉強に意味を感じない、そんな子どもたちが頭によぎる。それは、いじめの問題であったり、地方の教育資源の乏しさであったり、家庭の経済的背景の問題だったり。それは、大学で、ROJEでその分野の人と話して、知ったこと。

「学び」とは何なのか。「学び」は誰のためのものなのか。そして誰の視点で考えるべきか。

「学び」を問うことを、これからも続けていきたい。以上、ゼミ発表用資料から思うことでした。



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