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拝啓、大吉先生 私は何者にもなれず27歳になってしまいました。

大吉先生が ”大吉先生” ではなく ”児玉清のモノマネをするほうじゃない方” と呼ばれていた頃、一冊の本を出した。

年齢学序説ー   2010年、わたしは高校3年生だった。

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この頃の博多華丸大吉さんは、2006年に相方の華丸さんが児玉清のモノマネでR1グランプリを優勝。当時まだ世間が大吉先生を認知しておらずコンビ間格差があったと思う。その後、大吉先生は”じゃない方”としてテレビ番組に出るようになり、大吉先生が全国区の芸人になったきっかけとなる アメトーークの「中学の時イケてない芸人」で発した「焼却炉の魔術師」が、その年のアメトーーク流行語大賞になったのは、それから2年後の2008年のことだった。

アメトーークで大吉先生を見かけるようになり、高校生の自分はすっかりファンになってしまった。どこにでもいそうな善良な一般市民のふりをしつつ たまに飛び出す狂気的な発言、絶対的におもしろい安定の話術、幼少期を佐賀県で過ごした自分にとっては聞き馴染みの深い博多弁、そして顔が好きだった。

高校生になり家で過ごす時間が少なくなったが、大吉先生の出演回のアメトーークは必ず録画し、浪人生になり毎日12時間予備校で勉強する生活になっても、大吉先生が出ているテレビ番組だけは頼んでもないのに なぜか母親が録画してくれていた。大学生になりテレビなし家賃3万円 築30年の木造アパートに住んでいた時も、たまに実家に帰っては 家族が寝静まったあとに朝まで録画を消化した。社会人になって 初めて ルミネtheよしもとで 博多華丸大吉を見た時は 前から2列目の ど真ん中という良席で 「神は見てくれているのだ!!!!」と天を仰いだ。大吉先生は人生で初めてできた わたしの ”推し”だった。


話を本に戻すと、年齢学序説は 大吉先生が提唱しているある法則についての検証と考察が記されている。

それは、

人間には「26歳」の時に人生を好転させる何かが必ず存在する

というものだった。

大吉先生によれば、ダウンタウンの「ガキの使い」、とんねるずの「おかげでした」、ウッチャンナンチャンの「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」、ナインティナインの「めちゃ×2イケてるッ!」など、今日の日本の お笑い を牽引してきた彼らの代表番組のすべては、彼らが26歳の時に始まっていたらしい。この法則に漏れなく、博多華丸大吉の芸人人生を劇的に変えることになった 華丸さんの「児玉清のモノマネ」を、華丸さんが地元福岡のメディアで披露するようになったのも26歳の時だったそうだ。

恐るべし26歳。この時は 来たるべき9年後の素晴らしい未来に、17歳の自分は思いを馳せていた。

当時、17歳の9年前が8歳であることを考えると、「9年」という年月はすごく すごく先のことのように感じられて、9年後の自分は勝手に素敵な大人になっているものだと思っていた


「26歳」に対して、自分が明確にカウントダウンするようになったのは、社会人1年目の23歳の時だった。あと3回 誕生日が来たら26歳になってしまう。26歳と364日を終えるまでに 自分が何者かになるための準備をしなくてはならない、という考えが常に心の片隅を支配していた。

それからの自分は どんなことが 得意で、苦手で、好きか、嫌いかを見つけるために、とにかくいろんなことを試した。迷ったら”変化の大きい方”を選んだ。

24歳ではじめた彫刻は、まだ修行中だが 自分の性格に合っているのか今も続けている。さっきまでただの角材だったものが 自分の手によって まるで感情を持っているかのように微笑みかけてくるのは 何にも変えがたい面白さがある。

25歳ではじめたJ-POPのダンスは、万年文化部で学校の体育以外で運動をしたことがない自分にとっては かなりハードルが高かったが、上手いかどうかはおいておいて 楽しかった。毎週教室にやってくる 赤い汗拭きタオルのおじさんと頑張って DA PUMPのUSAだけは完璧に踊れるようになったが、通っていたJ-POPのクラスが閉校になってしまい それと共にわたしのダンス生活も終わってしまった。

26歳ではじめたWebデザインは、かなり苦手ということがわかったが、これも楽しかった。いまだにホームページの創世記のような原始的なものしか作れないが、自分の手で何かを形づくるのが好きということを確信した。


自分が何者かになるためには、あれこれ手を出して中途半端になっている現状はよくない とわかってはいたが、自分がジタバタしている間に霜降り明星ローランドなど同い年の26歳たちが、来たるべき歳に活躍しているのを目の当たりにすると、新しいことに挑戦せずにはいられなかった。

ジタバタはこれに留まらず、他にも 本をたくさん読んだり、和菓子を作ってみたり、絵を書いてみたり、楽器を吹いたり、仕事がマンネリ化するのを恐れて昇格を断って部署を異動したり、ジムに行ったり、接骨院に通ったり、歯をホワイトニングしたり、何かをやればやるほど 虚しくも自分は健康になっていった。

一貫性もなく あれやこれや やっている自分をみて、周りは「一体どこへ向かっているんだ」と言ったが、「どこにも行けないから 毎日同じ場所から出かけているだけだ」と思った。

いろんな経験をして得た、新しく芽生えた考え方や、今まで気がつかなかった自分の習性、出会った たくさんの変な人たちを記録しておこうと、26歳と10ヶ月目にnoteをはじめた

その1ヶ月後に、テレ東 深夜のドラマシナリオのテーマ選考に、当時フォロワー3人だった自分の投稿が最終選考まで残った時は、あまりの衝撃に脳の処理速度が0になった。見てくれている人はいるんだなと思った。ついに 自分が何者かになる時が来たのではないかと思えた。

結果はダメだったが、この経験は26歳の自分に起きたプチ事件だった。26歳と11ヶ月のことだった。プチ事件といえば、この年で親の離婚が決まり 実家が消失するという事件もあった。



結局、今 自分は何者にもなることができず 27歳と1週間が経った



色んなことをやりすぎて、大吉先生が出ているテレビを見ることも減ってしまった。それでも博多華丸大吉さんが出ているネタ番組だけは今でも必ずチェックしている。

元26歳のわたしは 来たるべき年に何者にもなれず、人生の1周目を終えた気分で新たな歳を迎えたが、年齢学序説には こんなことが書いてある。

年齢学とは、各界の著名人が納得のいくスタンプを押すことができた日や、将来、自分が押したいと思う色を作り出すために、染料の調合を始めた日などの考察である。その結果26歳という年齢で、誰もが羨むようなスタンプを押したり、今までにない色を求めて行動を起こした人が多かったという答えは出ているが、その調合が終わった日となると話はべつだ。もちろん、26歳で完璧な色彩を作り上げた人もいるが、調べてみると26歳をすぎてから完成を迎えたという人もそれなりに多かったのだ。そして重要なポイントは、そこで押されたスタンプは、調合に長い年月をかけた分、若者には到底真似できないような、まさに異才の輝きを放っていたということである。

未来が希望にあふれていた 9年前の自分には 、この4文は小さく見えたが、来るべき歳を過ぎた今、大吉先生が仕掛けた時限爆弾のごとく この言葉たちは 強く紙面から飛び出してくる。



こんなことを言われたら、26歳より先の時間も頑張るしかない。

調合を続けよう。


こうやって今日もわたしは 推しに生かされている。

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