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南北朝時代における天皇家

南北朝時代における天皇家 

 2019年10月22日、今上天皇の「即位の礼」が行われました。全世界から200近い国の元首・祝賀使節が来日しました。これだけの国から元首・祝賀使節を集められるのは、世界でも天皇家以外にはいないはずです。

 今上天皇は第126代目であり、天皇家は間違いなく世界最古の万系一世の皇室となります。

 さてそんな天皇家ですが、日本史では必ずしもその歴史が正確に伝えられていません。いつも書くことですが、日本史にはところどころウソがあります。意識的に「はっきりさせていない」と書いたほうが正確かもしれません。

 特に「はっきりさせていない」時代は、ヤマト朝廷の成立から大化の改新を経て律令制度が完成するまで、南北朝時代と室町幕府、それに幕末から明治維新までの各時代と考えます。

 ここでヤマト朝廷と明治維新については、そこで日本の支配体制が大きく変わっており、明らかに「新たな支配層」が都合よく歴史を書き換えていますが、これは世界の歴史でも珍しいことではありません。

 しかし南北朝時代は、確かに天皇を中心とした朝廷の支配体制が崩れて武家社会となっていった時代であり、同時に天皇家の「存在感」がその経済的基盤とともに大きく揺らいでいった時代でもあります。

 その時代の天皇家が歴史の表舞台から消えていたわけではありません。しかし南北朝時代とは万系一世であるはずの天皇家が2つ並立していたという「あってはならない時代」であり、さらに足利将軍家(とくに初代将軍の尊氏と3代将軍の義満)が天皇家への影響力を拡大していた時代でもあり、合わせて「意識的に無視せざるを得ない時代」となります。

 最近になって室町時代や足利幕府や応仁の乱などにはようやくスポットライトが当たり始めましたが、やはりこの時代の天皇家を詳しく取り上げることはタブー視されたままのようです。

 そこで今回は、大変に畏れ多いことですが「天皇家を中心とした南北朝時代」を改めて書くことにしました。そもそも歴史の教科書では「南北朝時代」として区分されていることも珍しく、室町時代(1336年~1573年)の最初の部分(1336年~1392年)として扱われているだけです。やはり「あってはならない時代」なのでしょう。

 ここでいきなり「南北朝時代」に入ってもわかりにくいため、もう少し前の時代から天皇家および朝廷について書き始めることにします。

 平安時代の天皇家および朝廷とは、藤原氏が代々天皇の外戚となり、また摂政・関白の座も一門で独占して政治を取り仕切っていました。つまり天皇家は完全に藤原氏に支配されていたわけです。この流れは第41代・持統天皇(女帝、在位690~697年)の時代に藤原不比等が重用され、律令制度が完成したときに始まります。

 その藤原氏も道長(966~1028年)の時代をピークに衰え始め、天皇家そのものが政治の実権を徐々に取り戻していきます。

 そのころの天皇家は「天皇には幼年の皇子が比較的短期間の在位となる」ことが多く、実際に政治の実権は天皇経験者である上皇あるいは法皇(上皇との違いは出家していること)が握っていました。これを「院政」といいます。ところが天皇の在位が比較的短期間であるため常に上皇も法皇も複数いることになり、その中でどの上皇(法皇)が天皇家の権力を維持するかについても「それなりに」争いのもととなっていました。

 またピークは過ぎたとはいえ藤原氏およびその一門(五摂家)が独占する摂政・関白は依然として存在しており、またそれぞれの娘が皇后や中宮として天皇家に入っており、それらの思惑も加わって状況をより複雑にしていました。

 政治の実権を藤原氏一門から取り戻した最初の天皇は、170年ぶりに誕生した藤原家を外戚としない第72第・後三条天皇(在位1068年~1073年)となります。後三条天皇の生母・偵子は道長の外孫でしたが、すでに道長の長男・頼通が当主となっていた藤原家には天皇の生母となる娘がいなくなっていたことになります。しかし後三条天皇は譲位後まもなく亡くなり、自ら院政を敷くことはありませんでした。

 しかし後三条天皇は慎重に「藤原家外し」を準備していました。後三条天皇には2人の異母皇子がいましたが、第1皇子の貞仁親王の生母は頼通の末弟・能信の養女(実子ではない)・茂子で、第2皇子の実仁親王の生母は源氏の出身である基子でした。そこで後三条天皇は藤原家とは関係のない実仁親王に譲位しようとしますが、さすがにまだ2歳だったため、「中継ぎ」として貞仁親王に譲位します。第72代・白河天皇(在位1073~1086)の誕生です。

 ところが白河天皇は、実父の後三条天皇と異母弟の実仁親王が相次いで亡くなったため、そのまま天皇の座に居座っただけでなく、1087年には実子の善仁親王に譲位して第73代・堀川天皇(在位1073~1087年)とし、その後も孫の鳥羽天皇(在位1107~1123年)、ひ孫の崇徳天皇(在位1123~1141年)と3代にわたって法皇として43年間も院政を敷くことになります。

 ここで当時の白河天皇(法皇)の最優先課題は、藤原家に二度と天皇家の継承に口を挟ませないことであり、その結果、自分の直系を次々天皇の座につけ自らはその「後ろ盾」として院政を敷いていたことになります。

 しかし当初は「中継ぎ」だったはずの白河天皇が、藤原家を完全に排除し、譲位後も法皇として43年間も天皇家の権力を独占することになります。「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれます。

 そして権力を掌握し続けていた白河法皇が1129年に亡くなると、その権力は(堀河天皇は1107年に亡くなっていたため)鳥羽上皇に移ります。そして実権を握った鳥羽上皇は崇徳天皇に異母弟である3歳の近衛天皇に譲位するよう迫ります。

 しぶしぶ退位した崇徳天皇が署名した近衛天皇即位の宣命はなぜか「皇太子」ではなく「皇太弟」となっていました。実際に近衛天皇は崇徳天皇の異母弟なので「それでいいのでは?」と思われるかもしれませんが、天皇というものは直系に譲位して初めて譲位後も権力を維持できるもので、弟に譲位した場合は天皇家における中心的権力そのものが弟の家系に移ってしまうため、院政など敷けるはずがありません。

 話が急に現在に飛びますが、今上天皇の皇位継承順位1位の皇嗣は弟である秋篠宮文仁親王となっています。今上天皇に男子の親王がいらっしゃらないための措置ですが、もし仮に秋篠宮文仁親王が次の天皇になられると、以後の天皇は秋篠宮から代々誕生することになります。今上天皇家がその事態を防ぐためには、皇室典範を改正して男系の女性天皇(歴史的にも複数いらっしゃいます)を認めればいいだけです。ここでは詳しく書きませんが、女系天皇と女性天皇は全く違った概念であり、歴代の天皇家に女系天皇は存在しません。

話を崇徳天皇の譲位に戻しますが、これは父親である鳥羽上皇の「策略」だったようです。つまり鳥羽上皇は自分が亡くなった後も決して崇徳天皇(上皇)に院政を敷かせない(というより崇徳上皇の直系を天皇の座につけない)という強い意思表示だったことになります。

何でそこまで?

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