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映画『夢みる小学校』を見て「真っ当な教育」へのモヤモヤが晴れた。

4月上旬に、富山県にあるほとり座という劇場で、映画『夢見る小学校』を視聴してきました!

『夢みる小学校』
楽しくなければ、学校じゃない
宿題がない、テストがない、「先生」がいない。
「きのくに子どもの村学園」の子どもたちは「プロジェクト」とよばれる体験学習の授業を通じて、自分たちでプロジェクトを運営し自らの頭で考えます。「楽しくなければ、学校じゃない」と、子どもの村のスタッフは口をそろえます。キラキラした目で笑顔で学ぶ小学生の姿を見た事がありますか?学校って、本当はこんなにわくわくする場所だったのです。 学校観が180度変わる”うれしい衝撃の授業風景”

https://www.dreaming-school.com/

映画はすぐに見られなくても、HPにある予告編だけでも是非見ていただきたい。この映画で私は、「真っ当な教育」へのモヤモヤが晴れたからだ

真っ当な教育。私はそれを、子供ファーストな教育だと思っている。そしてこの映画では、「先生がいない きのくにこどもの村学園」「通知表がない 伊那小学校」「校則がない 桜丘中学校」の3校の授業風景が映されていた。どの子たちも、みんな笑顔で楽しそうで、自由に学んでいる。それは本当に理想の姿だ。まさに、子供ファーストな教育。その環境をつくる全ての人を尊敬している。

しかし私は、この映画で出てくるような、学校や幼稚園で学ぶ子どもたちは、主体性や創造力はストロングポイントだけれど、社会性や規律性はウィークポイントになりやすいのでは、と思っていた。そして、そこに大きなモヤモヤを抱えていた。

「子どもファースト」である授業では、授業の具体的な内容やスケジュールを自分たちで話し合い、学年を超えてプロジェクトに取り組む。

しかし、その中で生徒たちが学校の大人にタメ口だったり、授業に疲れたら離席するという風景があったりと、とても違和感があった。

その違和感は、生徒たちが出ていく「社会」を考えるなかで生まれたもの。私は、時間や礼儀は守るためにあると思っている。だからこそ、それを学校で身につけずに社会に出ても、「社会人」として苦労するのではないか? もっと言うと、社会で通用しないのではないか? とまで思っていた。

このモヤモヤは、ずっと苦しかった。私は、大学でコミュニティデザインを専攻し、「対話」や「PBL」の必要性を心の底から感じ「本質的な学び」を探究し続けてきた。そして、その延長でEdoの一員になった。にも関わらず「子どもファーストの授業」には強い違和感を感じてしまう。そこまで自由でいいの? と矛盾してしまう。

しかし、最後まで映画を見てそのモヤモヤが晴れた。ようやく矛盾に終止符を打てた。

結論「この子たちは、社会に適応する力以上に社会を創っていくんだ.」とストンと理解ができた。

それは映画に出てくる「運動会」のシーン。内容、装飾、備品、司会、余興、参加対象、全てをデザインしていた。だから、そもそも運動会が嫌いな子は参加しなくていいし、疲れたら離席してもいい。でも、自分たちで運動会を創るための全ての工程を知識として知り、実現する術を学んでいた。

小中学生時代にプロジェクトを自分たちで創るこの子たちには、柔軟性があり、社会人になっても適応していけるだろうし、適応していくことが苦しい子は、自分が幸せに生きられる環境を創っていくんだ、と思えた。

では、社会を創る力が身につく学びとは、どんな体験や空間なのだろう。私にはまだ、答えがない。だからこそ、私の探究を続けたい。

「変わった教育」ではなく、「真っ当な子どもファースト」を実践している現場に実際に行って、大人たちに話を聞き、私の「本質的な学び探究」を続けようと思う。

(文:手嶋 穂)

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