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Blue Light Girls

コンクール落ち作品
本編無料、あとがきのみ有料です
"投げ銭"感覚で買っていただければ嬉しいです
第224回集英社Cobalt短編小説新人賞応募作品
(「もう一歩の作品」として作品名・作者名のみ掲載)

 闘う――とは、何か。少女は己に問う。自分にとって、闘いとは何か。勝って、勝って、勝ち続けて、その先に一体何があるのか。……愚問。少女はぐるぐると巡る思考を半ば強制的に止める。土台、そんな問いに答えなどない。少なくとも17年と少々生きただけの自分なぞに答えられるはずもない。小さく息を吐き、少女は握りしめていた百円玉を筐体に入れた。モニターの光で顔が青白く照らされ、口角がにやりと小さく歪む。
 少女は、今日も闘いに身を投じる。その果てに求める答えがなくとも。 

 薄暗い店内にずらりと並んだゲーム筐体から無秩序に流れる音楽、ごうごうと呻き声を上げる空調、ゲーマーたちが発するじっとりとした殺気と煙草の臭い、その他一切の外的刺激を遮断して、菜穂は目の前の闘いに全神経を集中していた。筐体にはめ込まれた32インチの画面には、菜穂が操る中華風のドレスに身を包んだ美女〝メイリン〟が、鎧のような筋肉を身に纏ったレスラー姿の巨漢〝ギガント〟に対峙する様子が映し出されている。あともう一撃。牽制が一発でも刺さればコンボで倒し切れる。菜穂が右手の人差し指でボタンを押すと、メイリンが下段の蹴りを放つ。と、同時に、左手でレバーを素早く動かし、当たれば即座に連携に移行出来るよう必殺技コマンドを仕込む。その切先が突き刺されば試合が決することを対戦相手も理解しているのか、あと一歩の間合いは確実に外してくる。
 無策に間合いを詰めてもリスクが増えるだけ。適度に技を撒きながらこの距離を保つ。これが最後のラウンド、向こうだって安易には攻めて……突如、ごう、と唸りを上げて目の前数ドットの距離まで拳が迫り、菜穂は思わずレバーを後ろに倒す。前ステっ! 決めに来た!? 間一髪で防御が間に合い、メイリンの腕の周りに青い火花が散った。マズい、ぼさっとしていたら攻め込まれる……いや、焦るな。瞬間、菜穂は画面上部に表示されたお互いの体力バーを確認する。メイリンの体力はまだ半分以上残っている。菜穂は再びレバーを後ろに倒し、更に一歩間合いを取った。大丈夫、まだ下がれる。闇雲に攻めて返り討ちにされるのはいつもの負けパターン……!
 制限時間を示すタイマーは一つ、また一つとその数字を減らしていく。焦燥感で口が乾く。たかだか十数秒の出来事がやけに長く感じられた。あと少し、このまま守り切ればタイムオーバー勝ちに持ち込める。根負けして近づいてきたならそこを刈り取れば――そう判断を下しかけたまさにその時、菜穂は背中に巨大な冷たい壁が触れたような錯覚に陥った。
 画面端っ!? ぎり、と嚙み締めた奥歯が音を鳴らし、レバーを握る指に力が入る。
 多くの格闘ゲームにおいて、試合が行われるステージには「画面端」と呼ばれるそれ以上キャラクターを後退させることが出来ないスクロールの限界が設定されている。端に追い込まれれば間合いを取ることが出来ず、相手の攻撃を真正面から捌かなければならない。当然、受け手は圧倒的不利な状況に陥るため、プレイヤーはいかに自分が画面端を背負わず、逆に相手を端に押し込むかが一つの駆け引きとなる。特に、ギガントの代名詞でもある投げ技はダメージが高くガード不能であり、凌ぐにはよりシビアな判断が求められる。
 投げ……いや、また打撃……? 背中合わせに設置された筐体の向こう側に座る相手の心理を、菜穂は必死に読み解こうとする。眼前の巨大な体躯から放たれるプレッシャー。画面を通じてメイリンの息遣いが聴こえてくる。そのリズムに自分の呼吸がぴったりと重なった瞬間、ゆらり、と巨岩が動いた。殆ど反射的に、菜穂はレバーを真上に倒した。すらりと引き締まった肢体が宙に浮き、その下で、丸太のような腕が空を切る。体制を崩したギガントの頭上に、鍛え抜かれた美脚が振り下ろされた。流れるような菜穂の入力に合わせ、メイリンは目にも止まらぬ蹴り技で自分の何倍もあるギガントの巨躯を吹き飛ばす。体力ゲージが瞬く間に減っていき、派手な演出と共に画面に浮かび上がる『K.O.』の二文字が試合の終了を告げた。
 菜穂は深く呼吸をし、続いて制服のブレザーからハンカチを取り出し手汗を軽く拭った。……運が良かった。あのままガードを続けていたら投げられて終わっていた。読み勝ったと言ってしまえばそれまでだけれど、そもそも読み合いに持ち込まれている時点で完璧じゃない。最後の最後でおみくじを引いているようじゃ、まだ――
「――ちゃん。なーちゃん!」
 不意に耳に届いた声に、菜穂の思考はせき止められた。顔をあげると、男物の黒い革ジャンとタイトなジーンズに身を包んだ女性が目の前に立っていた。
「カヤさん?」
 カヤと呼ばれたその女性は、呆けた顔をする菜穂を見てため息をついた。彼女が肩を落とすのに合わせて、低い位置で一つに結えた金髪がさらりと流れる。それから、カヤはつつくようにモニターの方を指差した。画面に表示された『GAME OVER』の文字と『プレイを続けるにはクレジットを入れてください』というメッセージとを数秒見て、菜穂は「あっ!」と、頓狂な声を上げる。
「『あっ!』じゃねーのよ。散々人のことボコっておいて無視とか、倫理観はねーのか」
 細く整えられた眉をわざとらしく吊り上げるカヤに、菜穂は苦笑いを返す。試合に集中するあまり、ゲーム内で設定された連勝上限まで達していたことに菜穂は気付いていなかった。
「しっかし、ここまで負け越すとはなー。結構対策したんだけど。コソ練してた?」
「してないですよ。それに、最後はギリギリでしたよ」
「煽られるよりも心にクる台詞ね、それ。ま、丁度いいし休憩しようよ。お友達……悠里ちゃんだっけ? その子も呼んでさ」
 菜穂は立ち上がり荷物をまとめ終えると、軽く辺りを見回した。そういえばあの子、どこにいるんだろう。店に着くなり一直線にプライズゲームコーナーに消えていったっきり、菜穂は彼女の姿を見ていない。
「多分、まだ下にいると思います。連絡してみますね」
 変な人に絡まれたりはしてないだろうけど。メッセージを送ろうと、菜穂がスマートフォンを取り出す。と、その時、
「菜穂ー! 見て見てー!」
 鞠のように弾む声が、二人の耳に届いた。外ハネのボブと制服のスカートとを揺らしながら、快活な笑みを浮かべた少女が駆け寄ってくる。
「うわっ、奇麗なお姉さん。えっ、何? 菜穂、ナンパ?」
 ――その腕に、妙にリアルな画風のくたびれた中年男性の顔がプリントされたウサギのぬいぐるみを抱きかかえながら。
「……悠里、何それ?」 

 ホールから離れ、三人は階段の踊り場の壁に横並びで寄りかかりながら缶コーヒーのプルタブを起こした。カシュッ、と小気味いい音が上下階から漏れ聴こえてくるリズムゲームやプライズゲームの音に一瞬混じって、すぐに溶けた。
 半年ほど前、菜穂がゲームセンターに初めて遊びに来た日も、ここでカヤとコーヒーを飲んだ。部活を辞め時間を持て余し、なんとなくで店に入り、モニターに映るキャラクターに惹かれてプレイした格闘ゲーム。闇雲にガチャガチャと操作をするだけの菜穂に常連らしいプレイヤーが乱入したところ、何が上手く嵌ったのか勝ちをもぎ取ってしまった。操作も覚束ない素人にまぐれ勝ちされたのが納得いかなかったのか、対戦相手は憤り菜穂に絡んできた。そこで間に入って助けてくれたのがカヤだった。
 以来、カヤはゲームセンターで菜穂を見かけるとよく声をかけてくれるようになり、対戦後にここでコーヒーを飲みながら駄弁るのがお決まりの流れとなっていた。
 ただ一つ、今日がいつもと違うのは、
「これ、甘ぇーっすね、カヤさん!」
 見知った顔が、隣で黄色いラベルのミルクコーヒーに目を輝かせていることだった。
「そー、美味いんだよ。なーちゃんは一回飲ませたっきり『甘過ぎる』って飲んでくれねーんだけどさ」
 自分を挟んで意気投合する二人になんとなくバツが悪くなり、菜穂はコーヒーを一口飲む。人工的な香りと苦みが、口内に広がった。
「あ、そうだ、最後の試合。あの垂直ジャンプってさ、投げ読みだったの?」
「えっ?」
 不意に自分に飛んできた声に驚き、菜穂は反射でカヤを見上げる。
「60秒くらいのとこかな。強パンチガードしたっしょ? で、画面端で二択迫られて、一度打撃防いでっから今度は投げ……って読みかなと思って」
 別に構って欲しかった訳じゃないけど、振る話題がそれって……菜穂が半ば呆れながら「……あれは、無意識というか」と返すと、カヤは吹き出した。
「じゃ、ラッキーだ。儲け儲け」
 からからと笑いながらカヤが乱暴に菜穂の頭を撫でるのに合わせて、伸ばしっぱなしのくせっ毛が好き放題に揺れた。
「でも立ち回りは困ってたね。もっと強気に技振ってもよかったよ。何、ビビッてたの?」
 煽るようなその口調に、菜穂は乱れた髪を手櫛で整えながら抗議の声を上げる。
「珍しくカヤさんが真面目に差し合い仕掛けて来たから、乗っただけですよ」
「あらー。じゃあ、ラインは終始こっちが押してた訳だから、実質あたしの勝ちだね」
「そうはならないでしょ。十連敗もしておいて」
「前途ある若者に試合を譲るのは大人の務めだからなぁ」
「それが大人の態度とは思えないんですけど」
「まぁ、真面目な話、ギガントはロクな差し返しが無いから地上戦は押した方が良いね」
「あんまり近づくと、投げ食らいません?」
「いや、メイリンのリーチなら投げ間合いの外から殴れるから――」
 カヤとゲームについて話し込む中、ふと、菜穂は真横からの視線に気付いた。しまった、悠里のこと忘れてた……。謝ろうと横を向くと、珍妙なぬいぐるみを抱えた悠里が穏やかな表情でこちらを見ており、菜穂はぎょっとした。
「な、何?」
「別にー」
 笑顔の意図が分からず、菜穂はたじろぐ。悠里とは中学に入ってから四年以上の付き合いになるが、たまに彼女の真意をはかりかねることがある。
「悠里ちゃん、普段ゲーセンに来たりはするの?」
 間を埋めるように、カヤが口を開く。
「あんまりです。中学卒業した日に友達とプリクラ撮って、それっきり」
「ふーん、ゲームもそんなにやらない?」
「ですねぇ。周りにやる相手がいなかったんで。あ、でもクレーンゲームは好きです!」
 そう言って、悠里は手に入れた戦利品を誇らしげに抱き寄せる。
「そっか。じゃあさっきの話、あんま面白くなかったね。ごめんごめん」
 ちょっとした失敗を誤魔化すような笑顔を浮かべるカヤに、悠里が
「いえ。私、人が楽しそうに喋ってるのを見るの好きなんで。それに、菜穂がこんな風に夢中になってはしゃいでる姿、久しぶりに見ました」
 と、屈託なく答える。カヤは目の前の二人の少女を見て、目を細めた。
「悠里ちゃん、もしよければ、後で一緒にやる? やり方なら私が教えるし」
 カヤの誘いに「すみません」と前置きしてから、悠里が答える。
「どうしても手に入れたい子がいて……って、ヤバッ、もしかしたらもう取られてるかも! ちょっと行ってきます!」
 悠里は近くのゴミ箱に空き缶を捨てると、「ご馳走様でした。また後で戻ってきまーす」とカヤに向けて一礼し、ぴょこぴょこと階段を降りていった。悠里の後ろ姿が見えなくなると、カヤはまた元の位置に背中をとんっと預け、甘いコーヒーに口をつけた。
「友達連れてくるなんて初めてじゃん」
「別に、勝手についてきただけですよ」
 呆れた声を出す菜穂に、カヤは穏やかな表情で
「仲良いんだね。大事にしなよ」
 と返す。妙に優しいその声色が気に食わず、菜穂はわざとらしく音を立ててコーヒーをすすった。
 菜穂と悠里は中学のソフトボール部で出会った。中高とスタメンだった菜穂と違い悠里は熱心に練習をするタイプではなかったが、どこを気に入ったのか、悠里は何かと菜穂の傍に寄っては、下らないちょっかいをかけ、他愛のない話に笑った。その関係は、菜穂が部活を辞めた今でも変わらず続いている。
 今でも時々、一年前のインターハイを思い出す。
 ぷつん、と何かが切れるような感覚。崩れたフォームと、よれた投球。まっすぐ空を翔る白球と、追いかける歓声。上がらない右腕と、滴り落ちる汗。抜けるような青。もう治ったはずの右肘の痛みは、時折針のように菜穂を突き刺す。
「そういえば、ここ一ヶ月くらいかな。めっちゃ強い子が顔出すようになってさ」
 飲み終えたコーヒーの缶を片手で弄びながらカヤが口を開き、菜穂は顔を上げた。
「多分、隣町から流れてきた子かな。ここらじゃ見ない顔だし、あそこは潰れちまったゲーセンも結構多いからね」
 曰く――艶のある黒髪と仕立ての良い清潔な服、鋭く整った顔立ち、そしてそれらが霞む程の腕前を持った、高校生くらいの少女。ふらりとゲームセンターに現れてはワンコインで連勝上限までプレイし、無言で立ち去っていく。彼女に叩きのめされたプレイヤーは数知れず、他を寄せ付けない強さといで立ちに、
「付いたあだ名が〝深窓の令嬢〟」
「どういうセンスなんですか」
「知らねーよ、あたしが付けたんじゃないし。最近じゃちらほらと観戦者も集まるようになったりして。まあ、話の真偽はともかく実力は本物だよ」
 カヤは菜穂の分の空き缶も受け取ってゴミ箱に飲み込ませながら、「あたしもまだ、一度も勝ててない」と付け足す。スチールとプラスチックが、ガコン、と音を立ててぶつかった。
 と、その時、格闘ゲームコーナーの方向から歓声が聞こえてきた。二人は目を見合わせる。
「噂をすれば……ってやつ?」 

 二人が筐体の後ろに着くと、もう試合は決するところだった。果たして、件の令嬢は向かいに座っており、こちらからはスーツを着た瘦せ型の中年男が必死の抵抗を試みる様子が見えた。
『――Perfect K.O.』
 1ドットの体力も奪われない、完璧な試合。先に観戦していた数人のギャラリーが感嘆の声を漏らす。先の試合の感想を言い合う者もいた。強者たる少女に向けた称賛で場が染まろうとする中、「クソッ!」しゃがれた叫び声と共に、男が筐体に激しく拳を打ち付けた。静まり返るフロアに、対戦を終えた少女がそのまま淡々と一人プレイ用モードを続行する音と、筐体から離れる男のわざとらしい足音が響く。菜穂は男の足取りを目で追っていた。程なくして、ギャラリーはまた元のざわつきを取り戻した。
「みっともないって、思った?」
 カヤの声に菜穂は振り向いた。今まで聞いたことのない、落ち着いた、低い声だった。
「いい大人が、自分の半分くらいの歳の子に、ゲームに負けたくらいでキレ散らかして」
 返す言葉が見つからず、菜穂は俯いて黙り込む。ギャラリーの中には男を非難する者もおり、菜穂もそれはもっともだと思う。見ていて決して気分が良くなるものでもなかった。でも――
「でもあたし、気持ちは分かるんだよな」
 菜穂の気持ちを知ってか知らずか、カヤが続ける。
「こんな場末のゲーセンでゲームに入れ込むような奴らなんて、多かれ少なかれどっかで心折られてんのよ。職場、学校、家族……次第に居場所も無くなって、こんな所まで逃げ込んで。じゃあせめてゲームでくらいって。でもやっていく内に、ここでさえ自分じゃどう頑張っても敵わない奴がわんさかいることに気付くんだ。ムカつくよな、そりゃあ」
 菜穂が顔を上げると、カヤは無人になったゲーム筐体をじっと見ていた。モニターの青白い光に照らされた横顔を、菜穂は奇麗だと思った。その視線は、ゲーム画面ではなく本当は全然別のところに向けられていると、なんとなく、菜穂は思った。
「カヤさんも、そういう――」
「だからって台パンはご法度だけどね。ってか、あのおっさんがそうかは分かんねーし」
 菜穂の言葉を遮って、カヤはいつもの明るい調子でそう言い、「さ、シケた話は終わり」菜穂の頭をがしがしと撫でた。
 それから、カヤは周りの観戦者に目配せをし、彼らに対戦台に座る意志がないことを確認すると、
「いっちょ腕試しと行きますかー」
 意気揚々、といった風に筐体に着いた。着古した革ジャンのポケットから百円玉を取り出し投入口に滑り込ませる。口元に笑みを湛えているが、眼には確かな闘志が宿っていた。その後ろ姿がなぜだか眩しく、菜穂は目を閉じた。
 私はどうだろう。私はここに、何をしに来ているんだろう。私はどうして――

 キン、と野球部員がボールを打つ高い音が校庭に響くのと、悠里が口を開くのとは、殆ど同時だった。
「菜穂さぁ、最近よくゲーセン行ってるんだってね」
 予想外の角度から投げ込まれた話に、学級日誌を書いていた菜穂の腕に変な力が加わる。その拍子にシャープペンシルの芯が折れ、教室のどことも知れぬ場所に飛んでいった。
「や、や、ちょっと待って、いきなり何?」
 開け放された窓から、ガサついた叫び声が聞こえる。どうやらボールは明後日の方向に飛んでいったようだ。
「格ゲーやってるんでしょ。強いらしいじゃん」
「なんで知ってるの?」
「秘密だった?」
「そうじゃないけど……」
「別に良いじゃん、やましいことがある訳でもなしに」
 悠里の言葉に、菜穂は目を伏せる。押し入れに仕舞い込んだグローブやスパイク。既読のまま返せていないメッセージ。見ないふりをしている自分。抱えたまま、首を縦に振る訳にはいかなかった。
「何に熱中しようが勝手だと思うけどね。ゲームだって、プロだなんだって時代だよ」
「そんなんじゃない……んじゃない?」
「ふーん。ねぇ、今度私もさ――」
 窓から風が吹き込み、日誌のページをめくる。「あったぞー!」野球部がボールを見つけ、乾いた捕球音が雲一つない青空に吸い込まれた。

『――K.O.』
 少女の操るキャラクター〝ダイゴ〟が、擦り切れた胴着の前襟を正し、帯を締め直す。古武術を源流とした技を磨き、己の道を究め続ける彼らしい勝利モーションだった。
「やー、参った。強ぇわ」
 席を立つカヤの手は、小さく震えていた。カヤからゲームの基礎を教わってきた菜穂は、カヤの実力を良く知っていた。
 カヤさんは強い。
 見た目とは裏腹に攻略は理論的で、少しでも詰められる部分があれば徹底して研究する。その上、ここぞの場面での勝負強さもあり、その性格にギガントの性能も良くマッチしていた。そのカヤが、手も足も出なかった。
 格闘ゲームにRPGのようなレベルの概念はない。いくら試合を重ねようと、キャラクターの体力は増えず、攻撃力も上がらない。そんな、プレイヤーにとっては当たり前の常識を疑いそうになるほど、少女の腕は圧倒的だった。強い……私よりも、ずっと。足が、無意識の内に身体を一歩後ろに運ぶ。
 臆する菜穂の前で、カヤは一瞬自身の手を見る。それから、一つ息を吐き、
「ビビッてんなよ」
 拳を作り、菜穂の額に触れた。
「負けたって死ぬわけじゃねー。逃げ場もここにある。だから、ビビんな」
 したり顔のカヤを見て、肩の力が抜ける。……前向きなんだか、後ろ向きなんだか。カヤの手を優しく払い、菜穂は筐体の前に立った。向こう側では、彼女がCPU相手に変わらぬリズムでレバーとボタンを操作している。もう座り慣れた固い椅子に腰かけ、百円玉を取り出し、少しの間を置いてそれを投入口に入れる。ハンカチで手汗を拭ってから、菜穂はボタンを押した。
『ROUND1 FIGHT』
 試合開始のコールが鳴り響く。と、同時に、少女がレバーを素早く2回横に倒した。ダイゴが一足飛びに距離を詰めメイリンの襟に手をかける。虚を突かれたメイリンは抵抗する間もなく地面に叩きつけられ、辺りに土煙が舞った。開幕前ステ投げ!? 素早い操作で体勢を立て直し、追撃を仕掛けてくるダイゴの拳をガードする。畳みかけてくる! なら……。連携の僅かな隙に差し込むように放った出の速い下段の蹴り――を、ダイゴが飛び膝蹴りで迎撃した。メイリンが勢いよく後方に吹き飛ばされる。ギャラリーがどよめく中、カヤだけが眉間に皺を寄せ小さく舌打ちをした。
 反応? いや、人間には不可能だ。読み? だとしたらイカれてる。外せば反撃で致命傷だ。でも……。
 打てば防ぎ、掴めば外し、守れば崩す。こちらの手の内を見透かしているかのような彼女の動きに、菜穂はたじろぐ。攻めも守りも、精度が異常だ。人間が操作をする以上、普通ある程度のミスは前提としてゲームが進む。ハイリスクな行動を避け、安定行動を選択するのがセオリー。でも、彼女にはそれがない。そのくせ、
『――K.O.』
 メイリンが蹴りを空振りした一瞬の隙に、ダイゴの正拳突きが刺さる。相手はこちらのミスを的確に突いてくる。ラウンドが終わるまで数十秒と経過していなかった。拳を交え、改めて分かる力の差に、目が眩みそうになる。
『ROUND2 FIGHT』
 地上がダメならっ! ラウンドが始まるや否や、メイリンが勢いよく前方に跳ね、降り際に蹴りを放つ。待ち受ける少女は、機械のように正確な手捌きでコマンドを作り、飛び掛かるメイリンを迎撃した。受け身を取ったメイリンの足元に、追撃の下段回し蹴りが突き刺さる。
 地に叩きつけられ泥に塗れても、菜穂は尚立ち上がり前に進んだ。右フックをガードし、突きで反撃する。掴みかかる手を躱し、顎に蹴りを入れる。気持ちが戦略を追い越し、それが徐々に少女のリズムを狂わせ始めた。
 足払いを受け転倒したダイゴに、メイリンが迫る。少女が素早くレバーとボタンを操作し、ダイゴが起き上がりざまにアッパーカットを放つ――が、あと一歩のところで歩みを止めたメイリンに、その拳は届かない。生じた隙を、菜穂は見逃さなかった。
『――K.O.』
 メイリンがダイゴを蹴り飛ばす。続く最終ラウンドを告げるコールも、ギャラリーが上げた歓声も、もはや菜穂の耳には届いていない。勝ちたい。その一心が菜穂を突き動かしていた。
 逃げるために、私はここにいるんじゃない。
 目まぐるしく変わる攻防。0コンマ数秒で塗り替えられる思考。無我夢中でちっぽけなレバーとボタンを操作する。菜穂が自身の疲労に気付いた時には、お互いの体力バーはあと数ドットのところまで減っていた。一つでも攻撃が通れば試合が決する。ぴたりと、お互いの動きが止まった。呼吸は浅く、手が震えた。どうする――どうすれば――
「菜穂ー、頑張れー!」
 不意に聴こえた馴染みのある声に菜穂は驚き、そのはずみに手がレバーとボタンに触れた。入力を受け付けた筐体が、メイリンに指令を送る。ショートジャンプからのつま先蹴りが、身を屈めてチャンスを伺っていたダイゴの肩に突き刺さった。
『――K.O.』
 残り数ドットの体力が尽き、ダイゴがゆっくりと地に伏した。勝利を収めたメイリンが、モニターの中で演武を行う。
「凄い凄い! これ、菜穂が勝ったってことだよね!?」
 いつの間にか背後に来ていた悠里の声が、フロアの沈黙を破る。彼女が飛び跳ねる度、プライズゲームで落とした景品を入れたビニール袋がやかましく音を立てた。
 ――勝った? 私が……。対戦が終了しゲームはCPU戦へと進んでいたが、菜穂は手を動かすことが出来なかった。
 ふと、前方から革靴が床を叩く乾いた音が近づいてくるのに気付き、菜穂は顔を上げた。突き刺すような鋭い視線が、一瞬、菜穂の眼を捉えた。
 少女はそれから数歩先の両替機まで歩き、投入口に千円札を飲み込ませた。じゃらじゃらと小銭が落ちる音が響く。そこで初めて、菜穂は自分がCPUにラウンドを取られていることに気付いた。

「待ってよ、菜穂ぉ!」
 ゲームセンターからの帰り道、再開発に取り残された商店街をつかつかと無言で歩く菜穂を、悠里が追いかける。両手に持った荷物のせいで、思うように走れないらしい。
「邪魔しちゃったの、やっぱ怒ってる?」
 誰もが息を呑む番狂わせを演じ、続いた二試合目。菜穂は初戦の激戦が嘘だったかのように封殺された。瞬く間に2ラウンドが終了すると、菜穂はカヤに挨拶もせずゲームセンターを後にし、その背中を悠里が追いかけているのだった。
「もう~、ごめんって! 分かった、ぬいぐるみ一個あげるから――」
 アーケードを抜け本通りに差し掛かった辺りで、菜穂がはたと立ち止まる。数秒して悠里が追いつき、弾んだ息を整えながら「えっ、マジに欲しい?」と、菜穂の顔を覗き込んだ。
「悠里、私さ……」
 菜穂が視線を上に向け、それに合わせて悠里も同じ方向を見上げる。青から茜へ滲むグラデーションが眩しく、二人は目を細めた。
「私、強くなりたい。今度は運じゃなく、ちゃんと実力であの子に勝ちたい」
「うん」
「強くなってどうするのか、とか、それこそプロがどうとか、分からないけど。もう少しだけ、夢中になっていたい」
「そっか」
 悠里は、ほんの少しだけ顔を横に向ける。出会った頃からずっと見つめ続けてきた女の子が夕日の赤に照らされ、悠里の心臓が、誰も気付かないくらい小さくとくんと跳ねた。
「……悠里」
「ん?」
「私がソフト辞めたこと、怒ってる?」
「……怒ってないよ」
「……ありがと」
 数秒、二人は見つめ合い、それからまた歩き始める。「でも、他の皆はどうかなぁ」「えっ、今それ言う?」笑い声を上げる二人の横を、バスが通り過ぎた。
 きっとこの先も、時折思い出しては自分を突き刺すこの痛みに、それでも向き合って進んでいけると、菜穂は思った。
「あ、そういえばあの子、サンコーの2年生で塔子ちゃんっていうらしいよ」
「えっ?」
「隣町から来てるんだって。同い年であんなにゲーム上手いなんてびっくりだよね」
 呆気に取られる菜穂を、悠里は気にも留めずに歩き続ける。菜穂は慌てて悠里を追う。
「じゃなくて、なんで知ってるの?」
「塔子ちゃんが両替から戻る時に、お喋りしたんだー」
 事も無げなその返答に、菜穂は力なく笑うしかなかった。
「ねえ、クレーンゲームだったらあの子に勝てるかも。私、コーチしてあげる」
「何それー」
 肩を並べ歩く二人の間を、風が通り抜けた。夏はもう、目の前まで来ている。

(了)

以下、あとがき

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1,372字

¥ 200

「おー、面白いじゃねーか。一杯奢ってやるよ」 くらいのテンションでサポート頂ければ飛び上がって喜びます。 いつか何かの形で皆様にお返しします。 願わくは、文章で。